◎悟りに耐えられるかどうかということと冥想法
肉体死で、誰でも必ず出会う神に相当する原初の光。あるいは臨死体験が起きても誰もが神に出会うわけではない。
神に出会うことを悟りと呼ぶが、そうしたシチュエイションにおいて、誰もが神に出会っていたとしても、誰もがそのことを認識するわけではなく、むしろ認識する人の方が少ない。
こういうものを「起こることは、起きたが、何が起きたかはわからなかった」などと評価することがある。
また私の知る限り、悟りは個人から宇宙全体へのジャンプの瞬間であり、個人から宇宙全体へのジャンプの間に段階などはない。
このような実情を踏まえ、冥想には悟りに至る冥想法と、悟りに耐えるための準備の冥想法しかないことがわかる。
その伝で行けば、今日只今の人間については、悟りに耐えられる人間と悟りに耐えられない人間がいる。そこで悟りに耐えられる人間には、悟りに至る冥想法が与えられるべきであり、また悟りに耐えられない人間には、悟りに耐えるための準備の冥想法が与えられるべきである。
ちなみにOSHOバグワンは、10巻本のヴィギャンバイラブタントラ第一巻の中で、直ちに悟りに至る冥想法は7つあると述べている(ちなみにこの本には112の冥想手法が紹介されている)が、悟りに耐えられない人間には実際のところ使えないことを明らかにしている。
誰でも「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」(深い方の夢)という悟りを持って生きているが、それに気づかないだけ。それに気づかずほとんどの人が、「起きて活動している時間帯の自分という夢」(浅い方の夢)に生きている。これぞ、酔生夢死であって、浅き夢みし酔いもせず。これを前提に、覚者たちは、誰でも今ここで悟りを開くことができるし、万人が神性を有していると胸を張って唱えているだけのこと。
世間では、只管打坐が急速に悟れる冥想法(頓悟)として有名で、クンダリーニ・ヨーガ系(古神道、内丹、密教を含む)は、徐々に悟れる冥想法(漸進的)として知られる。
しかしながら以上のような議論を踏まえれば、徐々に悟る冥想法などはない。悟りはワンステップで起こるからである。
実際のところ徐々に悟る冥想法はなく、悟りに耐える冥想法があるだけである。
新約聖書のパウロ(サウロ)は、悟る際に死にはしなかったが、何日か盲目になった。悟りに耐えられない例というのはそういうこと。
万人が一斉に悟りに気づくことのできるタイミングがあるであろうことは、古来から知られている。最後の審判、凡夫の耳も菊の年など。