◎出口王仁三郎の悟境
出口王仁三郎の悟境を探っていくと、明治31年の2月の28歳の時に、高熊山に一週間の冥想修行を行った事績に突き当たる。クンダリーニ・ヨーガ的に見れば、出口王仁三郎は六度死んだが、その一回目がこれなのだろうと思う。
その際に大神(天御中主神)を目撃したのか、あるいは神人合一の体験をしたかどうかは、霊界物語の本文中には出てこない。感覚の蕩尽、意念の断滅だったとは書いてあるが、松岡など神使に導かれ、多数の高級神霊に出会ったとは書いてあるが、肝心のところは書いておらず、「まことかたればきくひとはなし (宣長)」とはぐらかしている。
高熊山の修行直後の心境としては、
「我は空行く鳥なれや
○○○○○○○○○○
遙かに高き雲に乗り
下界の人が種々の
喜怒哀楽に捕はれて
身振り足振りする様を
我を忘れて眺むなり
実に面白の人の世や
されどもあまり興に乗り
地上に落つる事もかな
み神よ我と倶にあれ」
が残されているが、これだけでは、どういった境地かわからない。
そこで、歌集「霧の海」には、霊界物語より踏み込んだ所感が述べられている。たとえば、
天(あめ)もなく また地(つち)もなく われもなく
有漏路無漏路(うろぢむろぢ)を超越して居り
霊魂の力一ぱい天地(あめつち)に
いやひろごりてめぐりにめぐる
天にもあらず地(つち)にもあらず現(うつつ)にもあらぬ世界に
われ生く心地す
これらは、確かにそうなのだが、個人と神との逆転の視点なく、見ている自分が残っており、今一つなのだ。
そこでさらに他の彼の著作を捜してみることにする。