◎冥想法の区分
冥想法の区分で知られているのは、すぐ悟る頓悟と徐々に悟る漸悟。頓悟と言えば、黙照枯坐の只管打坐と看話禅の区分が有名だが、現代においては、すぐに悟る只管打坐と徐々に悟るクンダリーニ・ヨーガということになろう。クンダリーニ・ヨーガには、密教、道教内丹、古神道、西洋錬金術などを含む。
この区分のやり方の他に、そもそも冥想法を行わないという区分もある。それを唱えたのがクリシュナムルティであり、OSHOバグワンによればサーンキヤ哲学もそうなのだという。
OSHOバグワンの説明では、行、あるいは冥想法は、すべて頭(マインド、思考、想念)を用いる。頭を用いる極みにまでいって、頭のなくなる無心、ノーマインドという悟りの発生を求めるやり方が冥想である。(思考は言葉で行われる。言葉とは音である。)
つまり目的である無心とは逆方向に頭の作用を冥想により極限まで強化して、頭をジャンプ台として使って、最後は無心に到達しようとするやり方である。
だが、このやり方には、頭の作用を冥想により強化していく中で失敗する可能性もある。
そこで、これに対して、クリシュナムルティとサーンキヤは、冥想とは頭を必ず用いて冥想するものであって、頭を使わないところを究極の目標にするのであれば、最初から冥想しないのがよいと考える。
サーンキヤ学派は、自己(プルシャ)と原質(プラクリティ)の二元論であって、その極めた果ての知識が悟り。
サーンキヤ・カーリカー第64頌
『六四
以上のように真理に習熟して<私はしかじかではない、しかじかは私のものではない、しかじかは私ではない>というように完璧に誤謬がなくなれば、清浄で純然な知識が生ずる』
(インドの「二元論哲学」を読む イーシュヴァラクリシュナ『サーンキヤ・カーリカー』 シリーズ・インド哲学への招待 宮元 啓一/著 春秋社P179-180から引用)
要するに「清浄で純然な知識」が悟りであり、「完璧に誤謬がなくなること」が悟りが起こる前提条件なのだと思うが、どうすれば、「完璧に誤謬がなくなる」のかはわからない。
冥想法がないあるいは冥想を否定しているのはこの点であって、クリシュナムルティもあらゆる瞑想を認めなかった。
だが、ダンテス・ダイジは、そのやり方には限界があることを見てとって、自ら「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」を出版するに至った。
このように頭を使わないこと、すなわち無心の先に悟りがあることは間違いないが、冥想法を用いない方法で悟った人もいることも承知しておくべきだろう。