◎君の絶望そのものがすでに君が絶対そのものであることをしめしている
『「神様」のいる家で育ちました~宗教2世な私たち~/菊池 真理子/文芸春秋』を読みました。これは、宗教2世の生い立ちと苦悩が、七宗派別に分かれて描かれているもの。七宗派には、最近教祖が亡くなったところや、10年以上教祖が姿を見せていないところも含まれている。
宗教には、終着点を天国・極楽に置くものとそれを越えて更に奥に進み得る宗教がある。それは、教義の構造だが、人間本来の自由度を考えれば、そうした枠組みにとらわれず、『どうしょうもないほどの情熱と素直さ』(ダンテス・ダイジ/冥想道手帳から引用)だけでも窮極に到達することができる。
社会の構造や貧富の差や親の宗教はどうしようもない部分があるなどと、時に絶望に陥るかもしれないが、世界の見方は、その一種類ではなく、ヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスが見せたように、呪師の戦士としてイーグルなる神の下で、異次元の世界で永遠を求めるような全く別の生き方すらある(カルロス・カスタネダのシリーズ)。
そんなことを言っても、この絶望や理不尽や不条理は何も変わらないと思うのかもしれないが、例えばどんな立派な教祖様もいつかは死ぬ。人間である以上、どんな頑丈な人でもヒーローでもアイドルでも権力者でもスーパーリッチでも、いつかは死んで、名声も財産も勲章も地位も家族も友人もすべて置いていってしまう。
それを前提に、自分が本当に望んでいるものをまず見きわめることが先決なのではないだろうか。
この時代は、宗教的なものを求めなくとも、世俗的に普通に社会人として生きていくだけでも全精力を傾けねばならない時代になり果てた。求道者として、永遠不壊なるものを求めるには、あまりにも環境は厳しいが、それでもあきらめずに、できる手近なことから始めて、続けて行けば、ある日気がつくこともあるかもしれない。
取り逃がさないように、始終気をつけていることは大切だ。ある朝、長年待望したイエス様が来臨したが、眠っていて気がつかなかったというようなことは起こり得る。
悟りとは、神仏を見る、あるいは神仏と合体するということだが、今生でそれに到達するには、自分ではどうしようもない、『生きるエネルギー』が十分に必要だということもある。
悟りとは、意外に簡単みたいに表現されることもあるが、そうでない部分もあるように思う。
『君の絶望そのものが
すでに君が
絶対そのものであることをしめしている』
(ダンテス・ダイジ/冥想道手帳から引用)