アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

続瑞能神歌の真偽

2023-03-15 21:00:00 | 古神道の手振りneo

◎早すぎる水爆登場

(2011-03-27)

 

続瑞能神歌は、未曽有の大地震である東北関東大震災と福島第一原発の事故のダブルパンチに見舞われた今見てみると、ひょっとして当たっているかもなどという疑念もよぎる。そこで改めて真偽を真面目に検討してみた。

真偽と言っても、出口王仁三郎作ならば真で、そうでなければ偽ということ。

 

そもそも私が続瑞能神歌の存在を知ったのは、仲矢伸一の著書だったか、泉田瑞顕の著書だったかはっきりしないが、出口王仁三郎没後にいくつかの予言があって、出口王仁三郎の意向である(憑依した?)予言とされるものが何本かある。それらの一つが、続瑞能神歌であると思う。

 

なお日月神示は、その格調が大本神諭や、瑞能神歌などとはまったく異なるものなので、信用はしていない。

 

さて、続瑞能神歌は、1947年の発表とされる。出口王仁三郎の逝去は1948年1月。

 

続瑞能神歌の問題箇所の最初は、

「花のお江戸は原爆や 水爆の音草もなく」

最初の水爆実験は、1952年1月。よって、1947年の段階で水爆の存在が世に知られていたかどうかが問題となる。

 

新型兵器というものは、原爆もそうだが、実際にそれが使用されるまでは徹底的にその新型兵器の存在すら秘匿するもの。せいぜい、「SF小説には出てくるかもしれないような危険で無慈悲な新型兵器を敵国が開発している」という形のデマを飛ばすことで、その実在がほのめかされる程度である。

 

よって1947年の段階で、水爆のことが、大本関係者に知られているとは考えにくい。

 

続瑞能神歌の次の問題箇所は、

「残るは三千五百万 赤き自在天主の旗のもと」

日本一億人の三分だから、多めにはじいて3千5百万人と見たのだろう。しかし出口王仁三郎は、逝去直前の頃には、三分とは3割でなく、3%であるとつぶやいている。よってこれは出口王仁三郎の見方とは一致しない。

 

続瑞能神歌のもうひとつの問題箇所は、

「血潮に赤き統一も 一年余年の殺りくも」

出口王仁三郎のつぶやき(新月の光/木庭次守編)によれば、日本の立替は、半年であり、1年余年というのは、これと合致しない。

 

このように子細に見ていくと、続瑞能神歌の真偽は怪しいと言わざるを得ない。

誰か神がかった人の霊言をまとめて、箔をつけるために出口王仁三郎作と称したのだと思う。その時にその霊能力者の見ていた世界が地獄に近い霊界であればあるほど、悲惨な未来を予見することになるもの。

 

※(2023-03-15)本物の予言者は、現世を予言するものであって、霊界である地獄を予言するものではない。

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空虚の本質-1

2023-03-15 07:21:24 | 人と神の「実際のところ」

◎ただひたすら空虚になること

バーナデット・ロバーツは、自分がなくなってから、しばらくその取扱に苦しんだ。

OSHOバグワンに弟子から、自分がなくなる空虚についての質問がやってきた。

『瞑想の中で、「私」が一時的に落ち、内側に空虚が生じることがあります。でもその空虚は、「未知」の訪れによって満たされることがなく、私は挫折感を味わいます。 どうしたらその空 虚とともに生きられるようになるでしょうか。』
(ヴィギャンバイラブタントラ(7光と闇の瞑想)/OSHO P287から引用)

OSHOバグワンの回答のあらましは、次のようなものだ。

1. 空虚と未知は同じもの。

2. 最初エゴ(自己)が消え、次にエゴの不在が感じられ、更に次に真の空虚になる。

3. このエゴの不在で生じた内的空間が「神」である。

4. 「神」は到来したのではなく、もともとそこにあったが、エゴという膜で発見できなかっただけ。それが今ここ。

5. だが欲求すれば、空虚は失われる。
『だからけっして、「どうしたら、空虚とともに生きることができるか」などと尋ねてはいけない。それは真の質問ではない。ただひたすら空虚になることだ。あなたはまだ空虚ではない。 
いったん空虚とは何かを知ったら、あなたはきっとそれを愛するだろう。それはエクスタシーに満ちている。それはもっとも美しい体験だ』
(上掲書P289-290から引用)

6. 空虚は最奥の中心であり、一方あらゆる行為は表層にある。たまねぎの皮をむいたら最後は何もないというシュンニャの例えがこれ。

7. 空虚は源泉なので、これに対して「神や神的な力やエネルギー」が降りてきてほしいと思うとエゴが復活する。神と言う言葉は神とは別物。

ここまで単純明快に方向性を示してくれれば、エゴがなくなったバーナデット・ロバーツも山に籠ったりして苦悩と混乱と麻痺の数か月を過ごす必要がなかったかもしれない。

まことに、悟っている導師、マスターの存在は貴重なものである。

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