◎浅い夢と深い夢の一体化
荘周は、胡蝶になった夢を見た。胡蝶になって飛び回るうちに荘周であることを忘れた。やがてはっと目が覚めた時、自分が荘周であることに気づいた。しかしながら、荘周が夢で胡蝶になったのか、胡蝶が夢で荘周になったのかはわからなかった。
夢の世界は二重構造になっていて、「起きて活動している時間帯の自分という夢」と、「起きている時間帯も眠っている時間帯も稼働し続ける自分という夢」に実は分かれているのだが、これは、この浅い夢と深い夢の区分がなくなった状態であるように思う。
出口王仁三郎は、モンゴルのパインタラで銃殺寸前まで行き辞世の句まで詠んだが、それ以後、生きていながらこの世とあの世の区別がつかなくなったというようなことを言っている。
さらにOSHOバグワンは一歩進んで、荘周がそうした夢を見るには、夢を見る者が必要だと指摘する(ヴィギャンバイラブタントラ(5愛の円環)OSHO P121)
この指摘は、自分が世界全体になって、荘周にも胡蝶にもなったが、荘周も胡蝶も夢まぼろしであり、世界全体も夢まぼろしであるというところで唱えている。そこで夢を見ている者の立ち位置は、夢まぼろしであるマーヤ(無明)の外にあるということであろう。
夢幻とは、世界全体、宇宙全体だが、それは常にニルヴァーナとセットであり、なぜそうなのかは、ウパニシャッドでは、説明なく漠然と、世界全体、宇宙全体であるアートマンは、ブラフマンとペアで出てくることでわかる。
OSHOバグワンは、ニルヴァーナの存在を夢見る者として遠回しに語ったのだろう。この世の夢まぼろし(マーヤ)を仮現させるものは、ニルヴァーナだが、ニルヴァーナは独立では存在し得ず、マーヤあってのニルヴァーナ。だから常にペアで出てくる。