アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

冥想道手帳 ダンテス・ダイジ-13

2023-03-28 06:47:14 | ダンテス・ダイジの風光

◎自由な力、定力

 

冥想道手帳の続き。

『どんなに深遠な形而上的認識を

冥想修行の途上で得たとしても自由な力がなければ駄目だ。

 

定力を充実させる一つの方法は

君のなすべきことをなせ

ということだ。

それが、どんな簡単なことだろうと

どんなに困難なことだろうと

君のなすべきことをなせ。

 

もし、なすべきことが何なのかわからなけ れば

時が満つるのを待とう。

 

定力のみにかたよった冥想者は

つらの皮ばかり厚くて

世俗的な成功は手に入るにしても

生老病死の苦を越えることはできない。

絶対無の智慧を知ったとしても

智慧ばかりの冥想者は

心はみだれて使いものにならない

心は本来なしと思ったところで

その思いがみだれているのだから。

 

冥想修行の途上では

実力と智慧とが分裂することがあるものだ。

それは、絶対無を人間心理の側から

見てしまうからだ。

だが、絶対なる絶対無には

そんなややっこしいことはない。

 

だが、絶対なる絶対無には

そんなややっこしいことはない。

人間的観念に

いつまでもへばりつくことはできない。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

自由な力とは、定力であり、胆力のこと。冥想界隈では、臨済禅の師家に定力抜群の人が多いことは知られているが、一般世間でも、押しの強い営業ができる人に定力がある人は多数いるものだ。

 

ただし、悟っていなくて定力だけが強い人は周辺に迷惑をかけたりしていることもままあり、そういう人と一緒にいると「肩がこるような気がする」ということをダンテス・ダイジは言っている。

 

ここでは、定力と智慧二つながら極めることを求めている。定力だけあってもダメで、智慧だけあってもダメ。実のところ、大悟以前の修行段階では、どうしても定力だけ先行しちゃっているとか、智慧だけ先行しちゃっているという風になりがちだが、そのことについて是非を論じてもしかたがない。「君のなすべきことをなせ」なのだ。

 

このパートについては、全体として公案禅が念頭にあるように思う。

公案という不条理の論理に自分がなりきることで、絶対無の智慧を得る。並行して、日がな「ムームームー(無)」や「セキシュー、セキシュー、セキシュー(隻手)」などのマントラを繰り返すことで、肚(はら)を作る。

 

ここは、上位三チャクラ中では智慧のアジナー・チャクラだけ強調している。

 

そうは言っても、現代で社会人として生きていくには、ITや金融経済や法制などの知識と智慧だけではやって行けず、ハラの力、定力もないとやっていけないところもあるのは、現実である。冥想修行にあっては、智慧と定力を極めるのは必須だが、現実を生きるにも智慧と定力が必要なのである。

コメント
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