アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

道元-1-只管打坐で悟ったモデル

2023-11-05 07:18:18 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-12

◎青春期の水平の道-11

 

禅の冥想メソッドにも、公案あり、数息観あり、マントラ禅(無、隻手など)、只管打坐などいろいろある。その中で只管打坐を以って、身心脱落と呼ばれる大悟覚醒のシンプルな道を辿った典型例が道元である。

 

道元は、栄西の孫弟子であって、京都建仁寺で食べる物にも事欠く厳しい修行を経て、23歳で宋に渡った。

26歳、天童如浄に師事した。ある日、一緒に坐っていた禅僧が只管打坐中に居眠りをした。それを見た天童如浄が「参禅はすべからく身心脱落である。ひたすら眠ってなにをしようとするのか。」と叱った。これを聞いて道元は、豁然として身心脱落(大悟)した。

翌朝道元は、天童如浄の方丈(個室)に上って焼香礼拝したところ、「焼香の事はどうか?」と問われ、道元は「身心脱落しました。」と答えると、如浄は、「身心脱落。脱落身心。」と応じ、これが道元の大悟であることを証明した。

 

この身心脱落がどのような『体験とは言えない体験』であったかを直接描写したものはないが、正法眼蔵や正法眼蔵随聞記や宝慶記などで推測することはできる。

『正法眼蔵』の現成公案に

仏道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。』とある。

これは、自己を忘れれば、不思議にもすべての世界・宇宙と合一する(万法に証せらるる)ということである。さらにすべての世界・宇宙と合一すれば、それは自己も他己も同じなのだが、それすらも脱落するのだということ。

ここは七つの身体論で言えば、すべての世界・宇宙が第六身体アートマンであって、自己を忘れれば、第六身体アートマンと合一するシーンがあり、次にそれをも脱落し第七身体ニルヴァーナとなるシーンがあることを言っているように思う。要するに身心脱落とは、この二つのステップが急速に連続して起こることなのだろうと思う。

これを証明するには、自ら身心脱落してみるしかないが、自ら身心脱落したとしてもそのプロセスとメカニズムがわかるかどうかは、これまた別のことである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする