◎ジェイド・タブレット-05-18
◎青春期の水平の道-17
今こことは、世界全体、宇宙全体が自分と合一したということであって、そこでは過去も現在も未来も一緒になっているから時間はないこと。そのシチュエイションにある実感から出てくる言葉は、日々のあるいは一瞬一瞬の仕事や家事を精密にやることで悟りに至る事上磨錬という水平の道の成道者のものである。
(1)昨日の発句は今日の辞世、今日の発句は明日の辞世
芭蕉が臨終に近いある日、支考、乙州など、弟子たちがお見舞いに集まっていた。去来が芭蕉の具合を計って、芭蕉に「古来より有名な師匠は、ほとんど臨終に際して辞世の句を残すものです。「これほどの名匠の辞世はなかったのではないか」などと、世に言う者があるものです。師匠も見事に一句を残されたならば、諸門人の願いが叶うでしょう。」
これを聞いた芭蕉、
「昨日の発句は今日の辞世、今日の発句は明日の辞世。私の生涯で言い捨て置いた句はいずれも辞世である」と仰った。
更に
『あらゆる存在は本よりこのかた、常に寂滅の相(姿)を示す』これは釈尊の辞世にして、彼一代の仏教はこの一句以外にはない。
『古池や蛙とび込む水の音』
この句に我が一風を興したからこそ初めて辞世がある。その後百千の句を吐いたが、このつもりでなかったものはない。ここを以って、句々辞世でないものはない」と仰った。(花屋日記から)
こうして眺めてみると、芭蕉とその場に集まった門弟の間には恐ろしく距離がある。去来も不合格。森川許六が少々及第に近い程度か。
禅僧臨済が臨終の床で、弟子の禅僧三聖を嘆くシーンが思い起される。
だが、「およそ芸道は、「それ」をなぞるのみ」という俗言があるが、逆に仕事で言えば、事上磨錬として精密に仕事をこなし続けることで「それ」に至る道もあるということがある。だから芸道だからダメなどということはない。
(2)許六、芭蕉の一言で大悟する
森川許六は、芭蕉の高弟の一人。芭蕉の俳句を非常に突き詰めて考えていた。
彼の代表作は、『十団子(とおだご)も小粒になりぬ秋の風』
十団子は、駿河国宇津ノ谷峠の名物だが、十連団子が気のせいか以前よりも小さくなった。秋風。
ある日、許六が芭蕉に
「師匠の俳句で、仕損じた句というものはありますか」と問うと、
芭蕉「毎句だよ」と答えた。
許六、この一言を聞いて、言下に大悟したという。
【「予が云、名人師の上ニ仕損ジありや。
答テ云、毎句あり。
予此一言を聞て、言下に大悟ス。」『俳諧問答』】
人間は肉体のある限り、不滅とか永久に滅びないものなどない。死を迎えてすべてを喪失してしまうという不条理の前に絶望だけが立ちはだかる。いわんやそんな人間の俳句をや。
芭蕉は、少なくとも見性はした人物。
俳句の出てくるところが、未発の中からでないと、俳句は振れてしまい、バランスを欠き、完全性を失うのだろう。
未発の中にあって、それから諸法無我なる実体のない現象を歌い込めるのだから仕損じ以外はない。
俳句は中間的なものだが、そのデリカシーを突き詰めた先に見えるものもある。