◎ジェイド・タブレット-05-25
◎青春期の水平の道-24
◎松尾芭蕉-5-無常、臨終-3
◎自発的パッションすらも忘れ去り
芭蕉が、伊勢神宮に至り、新緑の木立の中、御神前に向かおうと歩を進めていると、そこはかとなく、香が流れてきた。
何の木の花とはしらず 匂ひかな
(芭蕉)
あらゆる懸命な人間的営為の後には香りが残る。求道の行きつくところは、なにもかもなしだが、OSHOバグワンは、「このかぐわしき香りは物質ですらない。香りは宇宙の中に消え去り、それと一つになる」といい、道元は、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなりとするが、そこにも香りが残る。
道元は、悟りを得るのは水に月が宿るようなものだ(正法眼蔵の現成公案篇)というが、そこにも同じ匂いが漂っている。
だからこそ、これだけは、強烈でかまびすしいプロパガンダや洗脳トライなどとは全く無縁なのである。本当に深遠なる奥深い所から来る自発的パッション、それすらも忘れ去られて匂い哉。