アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

松尾芭蕉-4-孤独

2023-11-19 03:50:55 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-22

◎青春期の水平の道-21

◎透徹した孤独感そして神秘

 

「うき我をさびしがらせよ 閑古鳥」

とは、芭蕉がある寺に独り居て詠んだ句(嵯峨日記)。この透徹した孤独感には癒せる手段はないことを知っている。

 

「おもしろうて やがて悲しき鵜舟哉」

これは、芭蕉が、鵜舟のかがり火の消えた闇を詠んだもの。

 

さらに

「瓶(かめ)破(わ)るる夜の氷の寝覚(め)哉」

寝覚めの床で聞く氷が瓶を割る音は、一入(ひとしお)孤独感をつのらせる。

 

解説書を読むと、芭蕉は、旅に出て老い先が短いから寂寥感が高いみたいなことを書いているのだが、そうではないのだろうと思う。覚者特有の孤独がある。

そしてその先には、社会的不適応も見える。この世を逆立ちしたまま生きなければならないのだ。

 

さらに、マタイによる福音書8章20節、

『イエスはその人に言われた、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。されど、人の子に枕する所なし」』

人の子とはイエスのこと。枕するところ、つまり家を求めるというのは、帰る家がないことを感づいている人に起こる。

 

帰る家がないことは、道元も芭蕉も同じ。

道元の遺偈

『五十四年

第一天を照らす

箇の浡跳を打して(浡はさんずいでなく、足偏が正しい文字となっています)

大千を触破す

咦(いい)

渾身に覓(もと)むる無し

活きながらに黄泉に陥つ』

これの現代語訳

『五十四年の人生において、

天の最高位を知ることができた。

 

〔いまは、そこからもなんのこだわりもなく〕飛び跳ねて全世界を打ち破ってしまうのだ。

ああ

体全体、置き所に拘ることもない。

生きたまま黄泉の国に陥ちてゆくだけなのだから。』

(道元禅師全集第17巻/春秋社P271から引用)

身の置き所とは、枕する家である。

 

そこでまた芭蕉。

此の道や 行人(ゆくひと)なしに秋の暮

 

此の道にもどこにも行人などいない。絶対的な孤独・・・・・。これだけ読めば、宵闇漂う舗装されていない道を宿へと急ぐ自分の寂寥感の表出だけの句である。

ところが松尾芭蕉は覚者なのである。そしてまた覚者の感情はあまりにも当たり前の人間と同じように残っている。個の隣で全体と一致するということが起こるのだが、それは、強烈な孤独感を残す。覚醒後は、孤独の極みに生きる。覚者の絶対的孤独感は、それが、絶対的であるがゆえに理解されにくい。

その孤独感は、あまりにも透徹していてあらゆる次元において独りであるという実感でもあるから、「帰る家がない」という嘆きにもなる。

国家や社会や家庭が荒れ果てていても、彼らに帰る家や故郷や山河はない。

ダンテス・ダイジはそうした心境を「私はわが家に安坐している」という詩において、

『帰る家がないからといって

家を求めてさ迷うには及ばない』とそろりと書いている。

こういうのをやさしさ、恩寵というのだろう。

 

非二元ノンデュアリティに生きるとは、その絶対的な孤独と寄る辺なさを生きることである。イエスであっても、ダンテスであっても、道元であっても、ことさらに、それを語りださねばならぬほど透徹したものなのだろう。

ゆくすゑに 宿をそことも 定めねば

踏み迷ふべき 道もなきかな

一休

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