◎ジェイド・タブレット-05-17
◎青春期の水平の道-16
松尾芭蕉は、元は伊賀上野の侍で、俳句の師匠となってから、禅に参じて見性までした。彼が大死一番すなわちニルヴァーナに入ったという逸話はないものの、残された俳句のいくつかに大死一番を経て生きる覚者特有の気配があるので、それを、孤独、今ここ、わび・さび・あわれ、無常・臨終に区分して挙げてみる。彼は、俳句の道の一道専心者であり、俳句を超えて行った。
(1)松尾芭蕉の出自
松尾芭蕉は、1644年伊賀拓殖の地侍の松尾家に生れたが、松尾家は平家の末流。芭蕉は、幼少より神童と謳われ、伊賀上野の五千石の侍大将の長男藤堂良忠に料理番のお小姓として召し抱えられた。
1666年藤堂良忠が没し、6年間伊賀上野にいて、1672年29才の彼は、俳諧で身を立てることを決意して、江戸に入ったとされる。伊賀拓殖は忍者の里としても知られる。
江戸に入って後は、小石川水道工事の設計に携わった功績を認められ、(武士なのに)町人別となることを許され、1680年深川六間堀に住むことを許されたという。
芭蕉は、小石川水道工事を4年やって突然やめて深川に隠棲したが、それは、将軍が綱吉に交代した影響のようで、深川の鯉の池の番屋での俳諧の点者暮らしはいかにもつまらなかったのであろう。
(2)芭蕉の見性(古池真伝)
松尾芭蕉は37歳の時、深川芭蕉庵で出家して、仏頂和尚に印可(悟りの証明)を受けた。俳句を詠むというのは、容赦のない現実に直面するという禅の現実認識の姿勢とは、一見相容れないところがあるように見える。そうした心境において、一種の歌心というべき心の余裕がないと俳句は詠めるものではないと思う。
さて仏頂和尚が、字は読めないが禅機鋭い六祖五兵衛居士を伴って、深川の芭蕉庵を訪れた。
六祖五兵衛は門をくぐって、芭蕉の顔を見るなり、
「庭の草木の中に仏法はありますか。」と問いかけた。
芭蕉は即座に「葉々は、大なるものは大であり、小なるものは小である。」と答えた。
今度は仏頂和尚が、
「この頃の調子は、どうだい」と問うと
芭蕉は、
「雨が過ぎて、青苔を流している」と答えた。
更に仏頂和尚が「青苔がまだ生えないで、春雨がまだやって来ない時はどうする」と畳みかけると
その時ちょうど一匹の蛙が庭の古池に飛び込んだ。
芭蕉は、
「蛙飛び込む水の音」と答えた。
仏頂和尚は、これを聞くと、にっこりと微笑み、持っていた如意を与え、芭蕉の悟境を認める偈を与えた。
本分無相(本来の自己に相はない)
我是什麼者(私は、言葉では語れないそのものズバリである)
若未会為汝等諸人下一句子(もしあなたがたが、もう一句に出会っていなければ)
看看、一心法界法界居一心 (ちょと見てみなさい。一心は法界(真理・実相のこと)であり、法界は一心である)
その様子をつぶさに見ていた門人たちから、お祝いを述べるとともに、嵐雪が「これでは、冠の句がありません。どうぞ五文字をつけて下さい。」と申し出ると、
芭蕉は、「それでは貴方がたの意見を聞いてから決めよう。ためしに上の句を行って見てください」
杉風は 「宵闇や」、
嵐雪は 「寂しさや」、
其角は「山吹や」、と出したが、いずれも平生の句より出来がよいが、どれも芭蕉の気にいらなかったので、自ら
古池や 蛙飛び込む 水のおと
に決めた。
(参考:禅門逸話選/禅文化研究所)
(3)芭蕉の師仏頂和尚のこと
一休の狂雲集も相当な禅的学識のほとばしる作品であるが、芭蕉の俳文集も相当に禅的素養がないときちんと読み込めないように思う。片言切句に、禅の故事などが散りばめられているからである。
芭蕉の師仏頂和尚は、常陸郡鹿島郡札村の人。32歳で鹿島根本時住職となり、鹿島神宮との所領争いの調停のため、江戸深川の臨川庵にしばしば滞在。この頃、松尾芭蕉と師弟の関係となったようだ。
おくのほそみちで下野の国黒羽に芭蕉が、仏頂和尚が庵を結んで修行した旧居を訪問する件りがある。仏頂和尚が、その狭い庵住まいの時に
「竪横(たてよこ)の五尺に足らぬ草の庵
むすぶもくやし雨なかりせば」という歌を炭で近くの岩に書きつけたと聞き、この旧居跡を訪ねてみたのである。庵は、谷沿いの道をはるかに進んだ雲巌寺の奥にあり、岩屋を背にして、石の上に小さい庵が作ってあるのを、後ろの山の上から見つけた。
これを見て芭蕉は、南宋の原妙禅師は、杭州天目山の張公洞に入り「死関」の扁額を掲げて15年間出なかったことなどを思い起こした。
木啄(きつつき)も庵はやぶらず 夏木立
夏木立のしんと静まりかえったなかにきつつきの音だけが響いている。庵の姿が往時と変わらないことに芭蕉の時間を超えた静謐さを感じさせる。