アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

コリアンダー、パクチー、香菜(シアンツァイ)から天の露

2023-11-14 21:11:35 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-07

◎天の露-07

◎クンダリーニ上昇と薬物刺激と暴走、暴発

 

天の露コアンドロとは、香味野菜。英語ならコリアンダー、タイ語ならパクチー、中国語なら香菜(シアンツァイ)、胡荽(こすい)。

オレンジの香り高いリキュール=コアントロー(仏: Cointreau)は、コアンドロとは関係なく、コアントロー兄弟が製造したからコアントロー。

だがベネディクティンなど古来修道院などで醸造されたという伝統的なリキュールを口にするときに、北欧神話の“蜜酒”を思い起こすのは私だけだろうか。

さて道教では、辛く臭気の強い次の野菜の食用を禁じていた。にんにく、にら、らっきょう、油菜(あぶらな)、胡荽(コリアンダー)がそれ。道教には、クンダリーニを上げる行法もあるので、こうした性欲を刺激する薬草摂取は修行の成果を無にしかねない。

西洋錬金術では、重要な局面で性欲が亢進しがちなことを戒める。挿絵は、“太陽の光輝”第六図だが、修行者が禁断の木の実(非時の香久の木の実)を採りに樹に登ったが、沐浴中の全裸女性たちに目線がくぎ付けになっていることを示す。クンダリーニは上がりかけたが、これで落ちる危険も大。※挿絵はwikipediaから。

樹の上からは無数の鳥が立つ。

“太陽の光輝”の次の第七図では年老いた王が海で溺れて、年老いた赤子として再生する。現代の時代全体のレベルである。

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天の露、コエンドロの実

2023-11-14 20:55:38 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-06

◎天の露-06

◎気なるマナ

 

中世錬金術者は天の露を集めようとした。

旧約聖書の出エジプト記16章で、モーセに率いられた放浪の民が、天の露を食べ物マナとして食した記載がある。

これは、砂漠を旅していたら幕屋の周囲に薄い霜のようなうろこのようなものが降っていた。それは、実の小さなコエンドロの木の実のように白く、蜜入りせんべいのように甘かった。それは食べられるもので、マナと呼ばれ、放浪の民は40年間もそれを食べ続けた。

ただし、翌朝までとっておくと腐り、毎週六日目には二日分が降り、七日目には安息日なので降らなかった。

食べ物と書いているので、食べ物と読む人もいる。だが、40年間も継続してゲットし続けたということであれば、食べ物とは考えず、大気中に充満する気だと考えたのが錬金術師である。

気を受け気を周回・操作するのは、気功導引、周天である。身体生命を維持するだけでなく、その死に至る運命の超克をも展望したのだ。

 

西洋錬金術は、どのような冥想法で至ったのかは定かでないが、クンダリーニ・ヨーガ系であることはわかる。

物理的食物を食さない不食の道もあるが、それでは文明生活は送れないのではないか。

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月の露

2023-11-14 20:51:16 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-05

◎天の露-05

◎露命、天の露

 

天の露とは、西洋の錬金術師たちも大いに求めたもの。例の大きな幕を広げて天の露を集めようという図柄のそれである。

出口王仁三郎が座談で、それは月の露だと明かす。

 

『富田 『お月様の光を手でくんで頭にかけると長生きすると言いますが、よく子供の時おばあさんにして上げましたっけ』

 

出口氏 『それは月の露の事だ。月の露は非常にええものである。雨の露はいかん。月の露を盃に受けておいてそれをのませれば大抵の病人は癒る。それで露の命なのだハヽヽヽ』

 ── 一同笑声 ──』

(出口王仁三郎と青年座談会/愛善苑編/みいず舎P98から引用)

 

更に出口王仁三郎の和歌。

『日の光月の露にて育みし

  秋の田の面に黄金の波立つ』

(霊界物語 第62巻第13章 神祈)

 

『月の露吾身魂をば霑して

  甦りたる心地せしかな』

(霊界物語 第67巻13章 山中の火光)

 

『月の露あみて太りし無花果は

  わが身体を生かす御饌なり』

(霊界物語 第73巻 無花果)

 

日の光ばかりでは足らず、月の露も必要なのですね。

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天の露とオルゴン

2023-11-14 20:37:25 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-04

◎天の露-04

◎生命が誕生する前、宇宙にはオルゴン・エネルギーが流れていた

 

焚書された現代アメリカの心理学者にして科学者のウィルヘルム・ライヒ。彼のいうオルゴンとは、中世錬金術者のいうところの天の露ではなかったか。彼の著書「宇宙との合体の一節」を引用しながらのコリン・ウィルソンの説明。

『「生命が誕生する前、宇宙的オルゴン・エネルギーが流れていた。地球上の気象条件が整ったとき、原始的な原形質の薄片という形で生命が誕生した。・・・・・・この薄片は、十億年以上かかって、単細胞生物へと進化した。

ここにいたって宇宙エネルギーは広大な銀河系宇宙のなかだけでなく、どんな小さな膜状物質のなかにも流れることになった」。そして地球上に生まれた生命は、長いゆっくりとした苦闘を開始した。そしてついに人間が誕生した。

「人間は少しずつ、オルゴン・エネルギーとの密接な繋がりや自然との調和を超えて思考しはじめた」。だが、やがて人間は自分自身を思考の対象とするようになった。自意識がうまれたのだ。

そこから堕落がはじまった。「・・・・・自分自身を、そして自分のエネルギーの流れを理解しようとして、人間はその流れを邪魔することになった。そして、そうすることによって、鎧を身につけ、自然から逸脱した。自分自身の核からの疎外がはじまり、生存の機械的秩序が、圧倒的な力で、有機的・無意識的・生体エネルギー的な自己調整に取って代った」』

(ライヒの悲劇/コリン・ウィルソン/筑摩書房P403から引用)

 

オルゴンとは、晴れた日の日中空を見上げ、眼の力を抜いて空中を眺めると、ぐるぐる回りながら乱舞している無数の光のきらめきが見えるが、それのことだと言われる。

オルゴンとは、気、プラーナのことかと最初のうちは考えていたが、むしろ人間を貫くクンダリーニのエネルギー・コードの原質みたいなものではないかと思われる。

というのは、上記引用文ではオルゴン・エネルギーとは自意識を成立させている原因であり、また自分自身の核からの阻害とは、コーザル体レベルでの自意識からの離脱のことを言っているように思えるからである。

つまりオルゴン・エネルギーとは、気・プラーナで成るエーテル体レベルのものに止まらず、それ以上の微細なレベルで活動するものであると、ライヒが見ていたと思われるからである。

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タロットの宇宙

2023-11-14 20:25:35 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-03

◎天の露-03

 

『タロットの宇宙/アレハンドロ・ホドロフスキー/国書刊行会』は、タロット好きによるタロットとともに生きる人たちのための本である。アレハンドロ・ホドロフスキーは、タロットの奥義を極めているように見える。

アレハンドロ・ホドロフスキーは、スラブ系のチリ人であって、チリに移民してきた際に近親者が火で亡くなったが、遺骸の上に一枚のタロットカード『戦車』だけが焼け残っていて、それが形見の品になった。

また彼が幼少期を過ごしたチリの漁港には、リトアニアのユダヤ人『狂ったアブラハム』が経営するビリヤード場があって、アブラハムは、いつもその奥のテーブルで、カードで大きな城を作っては、それを壊し、俺は神を真似て創造と破壊を繰り返しているなどと、宣まわっていた。

などなど心の深奥を打つようなタロットカードにまつわる印象的なエピソードで始まる本である。

 

アレハンドロ・ホドロフスキーはタロットの絵柄にはうるさく、後年真正カモワンタロットの復刻みたいなことをやるが、タロットの向き合い方は心得ていて、タロットを媒介に自分が鏡になることであるときちんとわきまえている。(この本には『いかにして鏡になるか』という一章も設けてある)

そういう点では、彼はすでにタロットカードのくびきは脱していて、またリーディングでは金をとったことはないみたいな雰囲気ではあるので、ちゃんと占断における正統的な作法は心得ている。

こうした点からすると、彼は求道者の用いる神占としてタロットを使っている。

私はタロットの下手の横好きだが、22枚ある大アルカナの16番以降に連続して大気中の天の露(エーテルか)が描かれていることは、この本で初めて知った。22枚全部順序に並べて眺めてみないとそんなことには気がつかない。

C.G.ユングの「個性化とマンダラ」という本の中に、古代人は、意志が弱く、現代人のように意志を固めて能動的に行動するのはなかなかできないというようなことが書いてあった。古代人は意志が弱いので、魂があくがれ歩きやすいということ。

古代人は意志を固めるためにこの「天の露」を集める必要があったのか、それとも離遊の運魂を身体の中府に鎮めるためには、意志を固める必要があったのか。

その意志とは定力なのか。

天の露は、17番目のカード『星』では星の図柄になっているが、星の運行を待ってやる技術もあるので、この星も天の露みたいなものだろうか。

それにしてもタロットの真価は、吊るされ人と愚者にあるので、時を俟(ま)つ技術にことさらにこだわるのは、クンダリーニ・ヨーガ系の技術であることを示している。

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天の露あるいは天の精気-2

2023-11-14 20:20:38 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-02

◎天の露-02

◎旧約聖書の創世記


旧約聖書の創世記で、老いて盲いたイサクが、長男のエサウに財産と家督を譲るため、鹿の肉をとってきて食べさせてくれと命じた。
これを横で盗み聞きしていたエサウの弟ヤコブは、母と語らって鹿の代わりに山羊の肉を調理して、エサウになりすまして父イサクに食べさせ、まんまとイサクから財産と家督を譲る祝福を得た。

その祝福の言葉に天の露が登場する。
『「ああ、わが子のかおりは、
主が祝福された野のかおりのようだ。
どうか神が、天の露と、
地の肥えたところと、多くの穀物と、
新しいぶどう酒とをあなたに賜わるように。
もろもろの民はあなたに仕え、
もろもろの国はあなたに身をかがめる。
あなたは兄弟たちの主となり、
あなたの母の子らは、
あなたに身をかがめるであろう。
あなたをのろう者はのろわれ、
あなたを祝福する者は祝福される」。』
(口語訳旧約聖書1955年版創世記27章27~29節)

弟に出し抜かれたエサウは、祝福をやり直して、改めて家督をエサウに与えるように父イサクに懇願するが、イサクは応じず、エサウに対し以下の冷たい予言を行う。
『「あなたのすみかは地の肥えた所から離れ、
また上なる天の露から離れるであろう。
あなたはつるぎをもって世を渡り、
あなたの弟に仕えるであろう。
しかし、あなたが勇み立つ時、
首から、そのくびきを振り落すであろう」。』
(口語訳旧約聖書1955年版創世記27章39~40節)

天の露もて覚醒に至る必要のあったのは、イサクの部族ではイサク一人で良かった当時のこと。今みたいに全員が覚醒すべしという時代のことではない。当時は覚者こそが部族リーダーであり、大祭司だったわけだ。これにより、部族で天の露を受けるべきは一人で良しという発想があるのだと思う。
ただし、ヤコブが父イサクを欺いた咎めは将来に起こるだろう。このような綾あるいは傷は、古伝承にはありがちな伏線である。

もし天の露が物質的なもののシンボルであれば、それは「地の露」と表現されただろう。
ここは、精神であり、聖と俗の聖の方であるから、天の露である。ゆめゆめ世俗の願望を実現するネタが天の露だなんて考えてはいけない。

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天の露あるいは天の精気-1

2023-11-14 20:07:22 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-05-01

◎天の露-01

◎沈黙の書

 

錬金術書「沈黙の書」では、天の露あるいは天の精気とは、天の精気を集めて、何かを為そうとするための原材料=第一質料=プリマ・マテリアである。

天の精気は、春分・秋分の水とも呼ばれ、「沈黙の書」第四図では、大地にソーラー・パネルよろしく大型の布を何枚か水平に張り、天から落ちるかそけき天の精気を布に染み込ませ、この布を男女一対の錬金術者が搾って鍋に集めようとしている。

シレジアの説教師ザムエル・リヒターは、「未分化の「宇宙の種子」を得てこれを塩のうちに固定せねばならない。」とし、その粘質の精気(露)の中心に事物の種子たる集中的核心がひそかに存在しているのだが、この種子を塩として得るならすべてが達成されると述べた。

リヒターはこの塩から至上にして不可思議なものが生じるがこれぞ再生と不死の像であるとも言っている。

これに似た言い方は古神道にもある。離遊の運魂を招きて身体の中府に鎮むるってやつである。魂が一つであると何となく思いがちなのだが、天の精気を無数の離遊の運魂と見れば、沈黙の書における天の精気と同じようなことイメージしているのではないかと思い当る。

天の精気あるいは天の露については、聖書にも言及がある。

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松尾芭蕉-1-求道

2023-11-14 03:34:45 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-17

◎青春期の水平の道-16

 

松尾芭蕉は、元は伊賀上野の侍で、俳句の師匠となってから、禅に参じて見性までした。彼が大死一番すなわちニルヴァーナに入ったという逸話はないものの、残された俳句のいくつかに大死一番を経て生きる覚者特有の気配があるので、それを、孤独、今ここ、わび・さび・あわれ、無常・臨終に区分して挙げてみる。彼は、俳句の道の一道専心者であり、俳句を超えて行った。

 

(1)松尾芭蕉の出自

松尾芭蕉は、1644年伊賀拓殖の地侍の松尾家に生れたが、松尾家は平家の末流。芭蕉は、幼少より神童と謳われ、伊賀上野の五千石の侍大将の長男藤堂良忠に料理番のお小姓として召し抱えられた。 

1666年藤堂良忠が没し、6年間伊賀上野にいて、1672年29才の彼は、俳諧で身を立てることを決意して、江戸に入ったとされる。伊賀拓殖は忍者の里としても知られる。

江戸に入って後は、小石川水道工事の設計に携わった功績を認められ、(武士なのに)町人別となることを許され、1680年深川六間堀に住むことを許されたという。

芭蕉は、小石川水道工事を4年やって突然やめて深川に隠棲したが、それは、将軍が綱吉に交代した影響のようで、深川の鯉の池の番屋での俳諧の点者暮らしはいかにもつまらなかったのであろう。

 

(2)芭蕉の見性(古池真伝)

松尾芭蕉は37歳の時、深川芭蕉庵で出家して、仏頂和尚に印可(悟りの証明)を受けた。俳句を詠むというのは、容赦のない現実に直面するという禅の現実認識の姿勢とは、一見相容れないところがあるように見える。そうした心境において、一種の歌心というべき心の余裕がないと俳句は詠めるものではないと思う。

さて仏頂和尚が、字は読めないが禅機鋭い六祖五兵衛居士を伴って、深川の芭蕉庵を訪れた。

六祖五兵衛は門をくぐって、芭蕉の顔を見るなり、

「庭の草木の中に仏法はありますか。」と問いかけた。

芭蕉は即座に「葉々は、大なるものは大であり、小なるものは小である。」と答えた。

今度は仏頂和尚が、

「この頃の調子は、どうだい」と問うと

芭蕉は、

「雨が過ぎて、青苔を流している」と答えた。

更に仏頂和尚が「青苔がまだ生えないで、春雨がまだやって来ない時はどうする」と畳みかけると

その時ちょうど一匹の蛙が庭の古池に飛び込んだ。

芭蕉は、

「蛙飛び込む水の音」と答えた。

 

仏頂和尚は、これを聞くと、にっこりと微笑み、持っていた如意を与え、芭蕉の悟境を認める偈を与えた。

本分無相(本来の自己に相はない)

我是什麼者(私は、言葉では語れないそのものズバリである)

若未会為汝等諸人下一句子(もしあなたがたが、もう一句に出会っていなければ)

看看、一心法界法界居一心 (ちょと見てみなさい。一心は法界(真理・実相のこと)であり、法界は一心である)

その様子をつぶさに見ていた門人たちから、お祝いを述べるとともに、嵐雪が「これでは、冠の句がありません。どうぞ五文字をつけて下さい。」と申し出ると、

 

芭蕉は、「それでは貴方がたの意見を聞いてから決めよう。ためしに上の句を行って見てください」

杉風は 「宵闇や」、

嵐雪は 「寂しさや」、

其角は「山吹や」、と出したが、いずれも平生の句より出来がよいが、どれも芭蕉の気にいらなかったので、自ら

 

古池や 蛙飛び込む 水のおと

 

に決めた。

(参考:禅門逸話選/禅文化研究所)

 

(3)芭蕉の師仏頂和尚のこと

一休の狂雲集も相当な禅的学識のほとばしる作品であるが、芭蕉の俳文集も相当に禅的素養がないときちんと読み込めないように思う。片言切句に、禅の故事などが散りばめられているからである。

芭蕉の師仏頂和尚は、常陸郡鹿島郡札村の人。32歳で鹿島根本時住職となり、鹿島神宮との所領争いの調停のため、江戸深川の臨川庵にしばしば滞在。この頃、松尾芭蕉と師弟の関係となったようだ。

おくのほそみちで下野の国黒羽に芭蕉が、仏頂和尚が庵を結んで修行した旧居を訪問する件りがある。仏頂和尚が、その狭い庵住まいの時に

「竪横(たてよこ)の五尺に足らぬ草の庵

むすぶもくやし雨なかりせば」という歌を炭で近くの岩に書きつけたと聞き、この旧居跡を訪ねてみたのである。庵は、谷沿いの道をはるかに進んだ雲巌寺の奥にあり、岩屋を背にして、石の上に小さい庵が作ってあるのを、後ろの山の上から見つけた。

これを見て芭蕉は、南宋の原妙禅師は、杭州天目山の張公洞に入り「死関」の扁額を掲げて15年間出なかったことなどを思い起こした。

 

木啄(きつつき)も庵はやぶらず 夏木立

 

夏木立のしんと静まりかえったなかにきつつきの音だけが響いている。庵の姿が往時と変わらないことに芭蕉の時間を超えた静謐さを感じさせる。

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