◎ジェイド・タブレット-05-28
◎青春期の水平の道-27
◎瀬田橋で身を投げようとする
一休は二人の先師に師事したが、その師事ぶりは、聖者である師匠に仕えるということは、これほど心酔し、へりくだってかつ信愛を注ぎ込むものかと思われるほどである。絶対服従という言葉が滑稽に思えるほどの、濃密な師弟の間柄である。
謙翁と言えば、一休(周建)が17歳から21歳の多感な修行時代に師事した和尚で、その死に際して自殺未遂までしたほどの大物覚者。謙翁は、師匠妙心寺の三世、無因禅師が印可(悟りの証明書)を授けようという仰せに対して、謙遜して受けなかったので謙翁という。
謙翁は、門を閉じて誰も寄せつけず、その宗風は孤高嶮峻であった。それがゆえに、ぼろぼろの今にも壊れそうな貧乏寺だった。
一休が20歳の時に、謙翁が彼に「私の法財はもうすべてお前に与えたが、私には印可がない。だからお前を印可しないのだ。」と一休の悟りを認めた。
一休が21歳の12月、その心酔する謙翁和尚が亡くなったが、葬式をしようにも金がなく、ただ心だけで喪に服するのみであった。
一休は、壬生の寺を去って清水寺に参詣したが、折しも大晦日から正月15日までは寺全体が、人の出入りを禁じ、断食し香を焚いて経を読む時期に入っていた。仕方なく母親のところに行き、再び清水寺に参詣し、大津に出た。
穴倉に入ったような一休の喪失感を見て、一人の人が、暮れによく作るきな粉餅数枚をくれ、それを食べながら、ふらふらと石山寺に向かった。
石山の観音像前で、自分の道心の堅固なることを七日間祈っていると、これを見ていた曹洞宗の僧が一休を自分の庵に招いて手厚くもてなしてくれた。かの僧が曹洞宗の古則百則を書写することを求めてきたので、さっさと書き上げたところ喜んで、旅費のたしにせよとて、お金をくれた。
一休はその足で、琵琶湖にかかる瀬田橋に着いて、川に身を投げようとしていた。虫が知らせたのか一休の母の使いの者が、ここに追いつき、入水を思い止まらせた。
このあまりにも純粋なエピソードには、後年の男色女色に溺れつつも、衆善奉行諸悪莫作の基本線を逸れない自由自在の覚者一休の原点をうかがうことができる。