◎ジェイド・タブレット-05-10
◎青春期の水平の道-9
クリシュナムルティは、次の引用文の中で、冥想を勧めてはいる。だが、マントラ(念仏、題目、オームなど)の反復や、ヴィパッサナーなどの呼吸法や、心をある一つの考え方に固定する方法を是認しない。
迂回せず、直接そのものになっていく冥想は只管打坐しかないから、クリシュナムルティは、只管打坐を推奨していると考えられるのである。
『こうした問題に対する回答を知る道-それは瞑想である。この瞑想という言葉は東洋においても西洋においても、極めて不適当に使われている。瞑想についての考え方や方法はまちまちである。
「足の指の動きを見守り、決してそれから目を離さずにいつまでもそれを見守ることだ。」という流派があるが、また別の方法では、ある姿勢をとって規則正しく呼吸するか知覚を実行するのが瞑想だとしている。
すべてこういった方法は機械的な方法である。
また、ある言葉をいつまでも繰り返すことによってまったく超自然的な経験を味わうことができると教える方法もある。
これは一種の自己催眠法であり、まったくばかげた方法である。反復によって心は平静になるのであるから、アーメンとかオーム、もしくはコカ・コーラといった言葉を繰り返していれば何らかの経験を持つようになるのは明らかである。これは何千年もの昔からインドで行われている有名な現象-マントラ・ヨーガである。
反復によって、心を静かな柔らかい状態にすることはできるが、その心がとるに足りない狭小で浅薄な心であることに変わりはないのである。
庭で拾った一本の棒きれを暖炉の上において、毎日その前に花を捧げることだってできよう。一カ月もすれば、あなたはその棒切れを礼拝するようになり、花をその前に供えないのが罪であるように思えてくるであろう。
瞑想とは何らかの方法を行うことではない。何かを反復したり模倣したりすることではないのである。瞑想は注意集中でもない。心をある一つの考え方に固定し、それ以外の考えをすべて心から追い払うといった注意集中について弟子に学ばせようとするのは、瞑想を教える人たちが好んで使う手ほどきの方法の一つである。
こんなばかげたつまらないことなら、学校の生徒でも強制されればそのとおりにやって、のけることができるのである。一方で一つのことに心を集中し、他方では他のさまざまなことに心を奪われるといった矛盾した状態に心をおくことであり、心がいろいろのことを思い浮かべるときに、その心の動きを注意していなければならないということである。心が一カ所に落ち着いていないということは、心が他のことに興味を抱いているということである。
瞑想を行なうのに必要なのは、きわめて機敏な心である。瞑想は人生の全容を理解し、すべての断片的な存在を捨てさることである。瞑想は思考を統御することではない。なぜなら、心を統御するときには、それによって心の中に不一致が生じるからである。しかし、いままで見てきた思考の構造と起源を理解すれば、思考はもはや妨害をしないのである。思考の構造を理解すること自体がその規律-瞑想となるのだ。
瞑想は、あらゆる思考、あらゆる感情を自覚することであって、その善悪を断定しないでそれをただ見守り、それと行動を共にすることである。 そうした注視の中で、あなたは思考と感情の全体の動きを理解するようになる。 そして、この自覚から沈黙が生まれる。思考によってつくられた沈黙は沈滞し生気を失っているが、思考の起源とその性質を理解し、思考というものはすべて自由ではありえず、常に古い存在であることを十分に理解したときに生まれる沈黙は、瞑想者がそこに存在しない瞑想である。 それは心が過去から完全に脱却したからである。
本書を初めから終りまで注意深く読めば、それが瞑想することである。だが、二、三の言葉だけをとり上げ、二、三の考えだけに注意を払って後でそれについて考えるというやり方では、それは瞑想とはならない。瞑想とは、何かをその一部だけでなく全体を完全な注意を払って見つめる心の状態である。
注意をどのように払うかは、だれにも教わることはできない。もし何らかの方式がそれについてあなたに教えるとしても、あなたはその方式に気をとられてしまうから注意を払っていることにはならない。
瞑想は人生における最も偉大な芸術の一つである。おそらく、それは最も偉大な技術であろう。それについて他の何人からも教わることはおそらく不可能であろう。それがまた、その美点なのである。それはいかなる技法も、またいかなる権威ももたない。 あなたが自分自身について学び、自分自身を見つめ、自分がどんなふうに歩き、どんなふうに食べ、どんなふうに語るかを見つめ、ゴシップ や憎しみや嫉妬を見守るときに、そうしたことをすべて自分自身の内部で自覚すれば、それは瞑想の一部となるのである。』
《自己変革の方法/クリシュナムーティ/霞が関書房P240-244から引用》
この中の『思考の起源とその性質を理解し、思考というものはすべて自由ではありえず、常に古い存在であることを十分に理解したときに生まれる沈黙は、瞑想者がそこに存在しない瞑想』(上掲書から引用)が只管打坐を指す。瞑想者がそこに存在しないとは、自分がないということであって、水平の道で言えば、有相三昧、無相三昧。
ただし、この説明の直前に『瞑想は、あらゆる思考、あらゆる感情を自覚することであって、その善悪を断定しないでそれをただ見守り、それと行動を共にすること』(上掲書から引用)とあるが、これはクンダリーニ・ヨーガ型の冥想だが、実際には只管打坐による身心脱落の結果、『あらゆる思考、あらゆる感情を自覚する』ということが起きるのだろうと読むのだろうと思われる。
なお、ヴィパッサナーなどの呼吸法の体系は、釈迦がそれによって成道したと言われるほどなので、窮極に至る手段の一つであることは間違いないと思うが、それも否定する。
一念集中法だって一念集中が極点に到達して、その圧力が抜けた空虚の瞬間に、頓悟(突然真実のものに気がつくこと)などが発生するのだが、それも避けるべきだとする。
棒切れを崇拝の対象とすることだって、19世紀インドの聖者ラーマクリシュナが寺院の石造りのカーリ女神像を神そのものと見て崇拝しまくってニルヴァーナに至ったのに、それすらノーという。
クリシュナムルティは、神智学出身なのに、クンダリーニとかチャクラとか高級神霊とか一言も言わないので、クンダリーニ・ヨーガ肯定でもない。従って、直接、マントラとか呼吸法などの方便なしにいきなり本当の自分に出会う冥想手法とは、只管打坐しかないと主張していると推定されるのである。
挙句に正師のアドバイスまで否定している。これでは、素直にこの本を読んでは、その冥想法が只管打坐だとわかることは至難である。この本自体が正解のない公案になっているとも言えるが、真理とはそういうものなのだろう。
クリシュナムルティが、晩年に誰も自分の事績を理解しなかったと嘆いた理由もわかる。だがその嘆きは、かえって人類全体の嘆きでもある。