アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

一休-3-生きる姿-1-男色女色酒食

2023-11-30 03:00:09 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-33

◎青春期の水平の道-32

 

一休は大悟の後、大酒を食らっては、男色、女色に耽るという悪業を繰り返したので、来世では馬に転生するなどという詩を書いている。

 

『(訓読)

大燈国師の尊像

酬恩庵常住

古今の仏祖師 草鞋の埃

遊戯三昧は南岳と天台。

昼夜の清宴 爛酔して盃多く、

女色勇巴 馬腹驢腮

児孫の純老 大笑咍々(かいかい)たり。

三尺の竹箆掌握の内

臨済 徳山 命乞いに来る』

 

(大意)

古今の仏教の祖師は、草鞋が埃(ほこり)にまみれて、真摯に修行して

南岳や天台山で自由自在の境地を得た。

それにひきかえ、私は、昼も夜も宴会で杯を重ねて酔っ払い、

女色も男色も楽しんだ結果、遂には来世は馬に転生する。

大燈国師の法孫の一休は、アハハと大笑い、

ウン

大燈国師が三尺の竹箆を握って来れば

臨済や徳山ですらも命乞いに来るだろう。

 

(原文)

大燈国師尊像

酬恩庵常住

 

古今仏祖師草鞋挨

遊戯三味南岳天台

昼夜清宴爛酔多盃

女色勇巴馬腹驢腮

児孫純老大笑咍々

三尺竹箆掌握内

臨済徳山乞命来

 

一休を風狂と称するのはたやすい。しかしそれでは何も分かったことにならない。

光明を得た者の生きざまは、すべからく諸悪莫作・衆善奉行のはずだが、一休は、逆に男色女色酒食を重ね、一見悪業三昧。

普化という臨済の同僚は、檀家の用意した折角の御馳走のテーブルを躊躇なく蹴り倒した。聖性というものを徹底すればするほど、日常の不徹底な部分はより捨象されていく、普化からは臨済ですらも不徹底のそしりを受けたほどである。

一休は要するに、この詩では、普化と同じ側に立って、みせたのだ。

 

それにしても、世間から見れば、覚醒した者が、なぜ悪事を働かなければならないのか、そこに関心が集まりがちなものだ。

覚者は大悟しても肉体が残る。肉体が残るゆえに働いたり、飯を食ったりしなければならない。肉体が残るが故に、外形だけ見れば何らかの悪事を敢えて犯すような側面が残る。そこに、そもそも人間として生まれてくる意味が潜んでいるように思う。

悟った後、別天地は、逆転した世界だが、その後も肉体を持って生きるからには、肉体に由来するいろいろなことがある。飯を食う、風呂に入る、身だしなみを整える、ねぐらを求める、服を手に入れる、金を稼ぐなどなど。悟ればその人にとって何の問題もないはずだが、どうしてその後も生きなければならないのか。そのことは、ときどき課題として出て来ることがある。

道元は、気に入らない弟子を追い出して、それに飽き足らずその弟子のいた庭の土を掘って捨てさせた。正受は、弟子の白隠を半殺しにするほど殴りつけた。クリシュナムルティは、禿を隠したかった。

なぜ悟後の大燈国師は鴨川の河原で20年も乞食をしなければならなかったのか。その20年の乞食生活こそ、一休にとっては、男色女色酒食の生活なのだとする。その点も「世界が変わる」という視点では逃せない視点である。

それに目をそむけずに、一つ一つ直面していける、受け入れていける。それが真人間の生き方というものなのだろうと思う。それが別天地での日常なのだろうと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする