◎ジェイド・タブレット-05-20
◎青春期の水平の道-19
◎松尾芭蕉-3-わび、さび、あわれ-2
◎さび
一方寂びとは、諸行無常、盛者必衰であり、様々に生成化々するあらゆる現象を見ているが、その一方でなにもかもなしというニルヴァーナにいるということで、その感傷に浸りきらない二重性を負った印象のことか。侘びがやや主観に重心を置くのに対し、寂びはより客観に重心があるとみるべきか。
復本一郎は、さびとは『現象としての「渋さ」とそれにまつわる「さびしさ」との複合美が一句に色として形象化されたもの』(さび/復本一郎/塙新書P190)と定義する。
松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。
象潟や雨に西施がねぶの花(芭蕉)
浜はわづかなる海士の小家にて、侘しき法花寺あり。爰に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれのさびしさ、感に堪たり。
寂しさや須磨にかちたる浜の秋 (芭蕉)
さらに
この道や行く人なしに秋の暮れ (芭蕉)
この寂しさと悲しみと物憂さだけと見れば単なる感傷だが、背景に大悟がなければ、一本筋が通らないと思う。俳諧の議論には、あまり悟った悟らないは問題にされぬようではあるが、芭蕉の弟子には大悟した者が何人かいる。悟ってなんぼの情感が、さびである。
そこで、
「うきわれをさびしがらせよ秋の寺」の一句は、伊勢長島大智院に松尾芭蕉の真筆になるものと伝わる。
解説本だと芭蕉は、旅から旅を繰り返していたので、旅の「ものうさ」が「うきわれ」の根底に流れているなどと書いてある。それもそうかもしれないが、覚者特有の絶対的に透徹した孤独感が「うき」であり、「さび」なのだろうと思う。
それはどこから来るかと言えば、覚者の生きる二重のリアリティ、すなわち個人でありながら神仏を生きるところから来るのだろうと思う。
それはなぜかと言えば、人は七つの身体でできているのだが、七つは個である五と全体の側である二に分かれる。全体である二とは神仏。
七つの身体とは、十二単衣ならぬ七単衣のようなものと想像しては間違える。五と二。
二の側も第六身体は有、第七身体は無。そこでは、体験者、見る者が、問題となる。見ている自分を捨てられるかどうかという課題である。一体誰が見ているのかということ。
第六身体は弥陀の本願・絶対他力だったり、神の恩寵と愛へとサポートする聖霊などと表現されることもある。第七身体は、維摩の一黙として言葉で表現できないとされることも一般的な、ニルヴァーナ、何もかもなし。
五と二が併存している二重のリアリティの実感が「さび」なる透徹した孤独感であり、「うきわれ」の基調につながってくるのではないかと思う。