アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

肥田春充の丹田強化-4

2023-11-23 06:39:30 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎足の踏みつけと踏みこみ

◎丹田を錬る-12

(2021-03-10)

 

肥田春充によれば、踏み込みはつま先でやり、踏みつけは踵でやる。踏み込みは敏捷を司り、踏みつけは強固を司る。彼は特に踵の踏みつけが最強として重視する。

そしてつま先のアングルは正面を向くこと。踵の踏みつけの強弱は中心力(丹田)の強弱に正比例する。その上で、眼光を定め、呼吸を整え、精神を集中したのが真の気合だと説く。

この修練により、頭寒足熱を実現できる。

また肥田は、観劇、スポーツ観戦などで観客が感情が激して立ち上がることをして、『激烈な感情は(意図せず)足に来る』と見る。この原理から合理的な足の踏みつけは、意志力の養成となるとまで推論している。

彼は、足の使役と目の支配は、面白い課題であって、禅の修行法の根幹もここに隠れているのではないかと見ている。

また動作のスタートでは足は0度だが、三船八段の空気投げの姿勢も踊りの名人の両足の開いている角度は90度になるとも語っている。

(以上参照:聖中心道肥田式強健術 肥田春充/著 壮神社P132-137)

 

禅では、半眼で目の支配のレベルを半分にする。一方で、作務と経行で足を動かさせる。その上で、公案禅や無字などのマントラ禅に取り組ませる。

また現代のライフ・スタイルは、『目の支配』が強烈であって、足を動かして丹田強化がそれを緩和させる機能を持っている可能性があると思う。

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松尾芭蕉-5-芭蕉の臨終

2023-11-23 03:29:50 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-05-26

◎青春期の水平の道-25

◎松尾芭蕉-5-無常、臨終-4

 

所思

此道(このみち)や 行人(ゆくひと)なしに秋の暮れ (ばせを)

この句は、一般には芭蕉は門人多数に囲まれていながら、俳諧の先駆者としての道を孤独の中に歩んでいる心境を歌っているなどと説明されているが、それは俳諧人としての解釈。

彼を求道者として見れば、その求道の道は、自分だけが歩む道であって、誰が助けてくれるわけではない。自分でその秋の道を歩むしかない、という虚心坦懐な句と見える。ここには霊がかりもエンジェルも八百万の神々もない。

芭蕉逝去の2週間ほど前の句であるから、体調も思わしくなく、すでに死の影は兆しており、自分でも覚悟ができつつあった時期の句ではないか。悲しいことにその心中を理解してくれる人とてない。求道者も覚者も大方が孤独に生きる。

 

旅懐

この秋は何(なん)で年よる雲に鳥 (ばせを)

これも同じ時期の句。この秋は、いつもの年にもまして肉体の衰えが感じられる。雲に鳥は、まもなく飛び立つ我が身を予感している凄味がある。

 

病中吟

旅に病で 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る  翁(芭蕉)

これは亡くなる四日前の句。2日後に遺書3通をしたため、その2日後に没す。

芭蕉最後の句である。既にパノラマ現象並に記憶がかけ廻っている。この世に別れを告げる時は、見性体験のある人でも、あらゆる愛着が意識の表面に一斉に浮かんでくるものと見える。

芭蕉はこの時、「・・・・なおかけ廻る夢心」とも作って弟子支考に見せたが、上の5文字をどうするか問うことができず、結局そのままになったという。

 

文明に別れを告げる時も、一斉に様々な深刻なエモーションが増幅されて出てくるものだと思うが、ミュージック・シーンやシネマ、テレビ・ドラマなど芸術方面で、そうなり始めたら(もう充分にそうなっている?)、切迫していることがわかるに違いない。逆に、いかにも人工の作り物っぽいところが見えるうちは、まだ時間があるということになる。

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