◎ジェイド・タブレット-05-23
◎青春期の水平の道-22
◎松尾芭蕉-5-無常、臨終-1
◎捨て子
悟りすました後でも、現実の貧しい生活は変わらないし、思いのままにならない、どうしようもないことばかり多い。「俺は神・仏に出会った。でも、なぜまたその後も毎日しようもない労働をして金を稼いで生き続けなければいけないのだろうか」とは、覚醒した方たちが、等しく思うところの感慨に違いない。
そこで芭蕉の野ざらし紀行
「野ざらしを心に風のしむ身かな。」(芭蕉)
野に捨てられたされこうべである「のざらし」になると決意して旅に出たものの、やはり秋風は身にしみるわい。
「猿をきく人すて子にあきのかぜいかに」(芭蕉)
芭蕉が富士川のあたりを通っていると三歳くらいの捨て子を見かけた。その鳴き声を聞けば誰しも何とかしてやりたいとは思うものだ。このままほっておけば、飢えて死を迎えるのは必定。
ところが芭蕉は、「父がお前を憎んでそうしたわけでもなく、母がお前をうとんでそうしたわけでもなく、ただ天命がそうするのであって、自分の運命(性)のつたないことを泣きなさい。」と、この世に生まれ落ちる以前から、自分でそういう環境を選びとってきたことを思い出せ、と言わんばかりの、まるで一人前の大人に対するような言葉を残してその場を逃げ去ってしまう。
和歌や漢詩で猿の声を風流と聞くような、鋭敏な感性を持つ人は、この捨て子の泣く声を何ときくのだろうか。現代も「虐待」という名の捨て子が増える時代となった。
現実の無慈悲さは変わらないが、本当は無慈悲ではないことを知っている自分があることを見極められるか。