◎ジェイド・タブレット-外典-05-09
◎風雅は身とともに終わる
丿貫(へちかん)は、武野紹鷗の高弟であって、茶器を馬に負わせて諸国を徘徊した。
もともと丿貫と利休はライバルであって、丿貫は利休が世におもねり、世間の人にへつらうことの多いことをいつも憤り、また利休が権力者にかわいがられることをひどく嘆いていうには、
「利休は幼少の頃は純粋で篤実な奴だったが、今は若い頃とは違って志が薄くなって昔と人物が変わってしまった。人は20年毎に志が変わるものだろうか。
私も四十歳から自分を棄てる気分となってきた。利休は、人生の右上がりの上昇時期だけしか知らないのだが、惜しいことに、人生の衰えていくパートを知らない者である。
世の中の移り変わることを飛鳥川の淵瀬に例えたものだが、人の変わることはそれよりも早い。
そういうわけで、わかっている人は、世界を実体がないと見て軽く世を渡っていくものだ。云々。」
丿貫は、その没年に自分の短冊を買い戻して焼き捨てて、
「風雅は身とともに終わる」と語って没したという。
世界も身とともに終わる。
財産も身とともに終わる。
地位も身とともに終わる。
名誉も身とともに終わる。
丿貫は、自分の短冊がよほど恥ずかしかったのだろうか。自分の宇宙が終わるということで、別れを告げるやり方がたまたま短冊買い戻しだったのだろうか。
丿貫は、およそわびてなどいない戦国武将たちにわび茶を説く利休に嫉妬があったのだろうか。私は利休は未悟だと考えているが、未悟の一求道者としての利休が、武将たちにわび茶でニルヴァーナの薫香を香らせてみせることには、それなりに意義があったように思う。
世の人の99%は、仏性を具しているとはいえども悟ってはいないからである。