◎『善』、行動の冥想-6
◎功過格(毎日の行動を善悪に分けて採点する)
自分で閻魔大王してみようということですね。
あの世の閻魔大王の前には、自分が乗る天秤はかりがあって、自分の体重より自分の犯した罪が重ければ、地獄行きだって言うじゃないですか。
それで中国では、他人が見てなくとも天はあなたの行動を見ているという通念があって、善行をたくさん積み重ねた家には、意外な慶び事があり、小さな悪事を積み重ねてきた家には、不慮の災難がふりかかる、というではないですか。
(積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃(よおう)あり:易経)
※文化大革命以降は、中国では礼儀正しいことはブルジョア的であるとして、労働者階級の敵として批判される理由になるので、今の中国でこんなことを言っても通用しないと思いますが・・・。
次項の功過格(善行/悪行)は、12世紀中国の金の時代の新道教「浄明道」に由来すると言われています。その後、明の時代の袁了凡という高級官僚が、これを勤勉に守ることにより、科挙の試験(高級官僚任官試験)も合格し、占いでは、できないと言われた子供まで授かったので、抜群の効果があることがわかり、「陰隲録」に所載されて、有名になったものです。(陰隲録(いんしつろく)/明徳出版社)
でも、効果を期待して行う善行は善行ではないのですが、功過格でも同じ考え方です。
袁了凡は、まる三日冥想しても雑念が沸かなかったので、既に想念停止まで、できていた人であるが、善行にまで踏み込めなかったので、窮極の体験はまだなかったと考えられます。
想念停止そのものに対しては、善でも悪でも入れられるので、その段階から袁了凡は、戒律としての「功過格」を与えられたのだと考えられます。「功過格」こそ『行動する冥想』そのものなのです。
そして功過格は、人間が生活の智慧として集めた良い行い・悪い行いの実例集ではなく、究極(仏、神、宇宙意識)を知った人は善行だけ行い、悪事を行う事ができないが、その生きる姿『衆善奉行 諸悪莫作』を、世俗で生きる者のためのおすすめ行為とやってはいけない行為の実例に翻案したものであると言えます。つまり功過格は人間の側から来たものでなく神の側から来た行動基準とも言えると考えられます。
そして袁了凡が、北京の雲谷禅師に会って、功過格をやってみようと決心した理由は、「今までの境遇や運命は、天から与えられたものであるが、これからの運命は、自分の努力で能動的に変えていくことができる。」と説得されたからです。
この部分だけが、様子を知らない世間の人に『願望実現のノウハウ』として強調されてしまったのだと思います。
逆に、そういう誤解の起こることを承知で出したということもあるでしょう。つまり功過格の外形はカルマ・ヨーガであり、無私の行動を積み重ねることにより、宇宙意識(仏、神)に至る道だからです。