◎その人にフィットする戒律
密教系の本を読んでいたら、釈迦は最後食中毒を起こして死んだが、それは、キノコが腐ったのを食べたと大乗仏典では書き直しているが、それ以前の経典では実はキノコではなくて、もともとは猪の肉か、豚肉の腐ったのを食べたのだと書いてある由。釈迦が肉食をしていたのは、大乗的には都合が悪いことだったので、大乗で肉食していないことに書き直したようだとのこと。
おまけに今をときめくダライ・ラマとその周辺は、ステーキが大好きだなどと書いてあった。ダライ・ラマ自伝では、ダライ・ラマは自ら健康のために肉食をしていることを認めているが、改めてステーキが大好物などと書かれてしまうと戒律特に殺生戒についてどう思っているか考えさせられてしまう。
つまり肉屋のさんのカルマはどうなんだとか、スーパーの肉売り場の人のカルマはどうなんだとか、動物を殺すのは殺生だが植物を殺すのはいいのかなどと、果てしないカルマ・ヨーガ的な視点に落ちてしまうところがある。
そこで肉食反対の出口王仁三郎の主張を見ると、そもそもスサノオノミコトが、いわば爛熟腐敗した肉食文化の象徴たる大気津姫を殺した時(古事記による)に、その遺体から稲、粟、小豆、大豆、麦などの穀類が生った(死からの再生)ことを根拠にして、人間の正食とは穀食であるというもの。
穀食すれば心血自然に清まると、出口王仁三郎は云うが、その快適さを知るには、まずファーストフード店などで外食をしないことから始まりそうだが、ライフスタイルによっては実現することはかなりむずかしい人がいると思う。つまり現代人の大多数にとって肉食の禁止は現実的ではないのだと思う。
結局修行者にとって,その修行のタイプに必要な戒律はあるものだと思う。いわば正師から適切に与えられた戒めだけがその人に必要な戒律であると思う。しかしながら、肉食戒も含め、組織宗教が誰に対しても十把ひとからげに出してくる戒律は、そのすべての条項が修行者全員に必要なものとは考えにくい。