◎クリシュナムルティ-4
別世界と言う場合、それが、心理現象なのか、世界が転換したのかを見極める必要がある。
「ことごとく死人となりてなりはてて」は、至道無難の歌だが、この日常感覚、世界感覚を述べたと思われるクリシュナムルティの文がある。これをして、別の世界に生きているということを端的に知ることができるように思う。これは、叙情的表現でも、特定の信念の発露でも、とある教条に従った生き方でもなく、別世界の日常感覚ではないのだろうか。
『死ぬというのはどんなことなのでしょう?
あらゆるものを諦めること。死はとてもとても鋭い剃刀で、あなたをあなたの執着するものから、あなたの神々から、迷信から、安楽を願う望みから――――次の生などから、切り離すのです。
私は死が何を意味するかを見出そうとしています。なぜならそれは生と同じく大切なことだからです。ですから、理論的にではなく実際的に、死が何を意味するかをどうしたら見出せるのでしょう? あなたもそう望むように、私は実際に見出してみたい。あなたのために話しているのですから、眠らないようにしてください。
死ぬということはどんな意味ですか? 自分自身に訊ねてみなさい。若い頃も、齢をとってからも、この質問はいつもそこにあるのです。それは、人間が積みあげた、あなたが積みあげたすべてのものから完全に自由に、無執着になること――――全的に自由になることです。
どんなことにも執着せず、神も、未来も、過去もないことです。あなたはその美しさ、その偉大さを見ないのです。その途方もない力強さを――――生きながら死ぬことです。その意味がわかりますか?
生きているあいだ、どの瞬間にも死ぬのです。ですから生を通して何にも執着しないのです。それが死の意味なのです。
したがって、死ぬことは生きることです。おわかりですか? 生とは、自分の執着しているあらゆるものを日ごとに放棄することです。できますか?まことに単純な事実ですが、意味するところは途方もないものです。
ですから毎日が新しい日なのです。毎日死んでまた受肉するのです。すると凄まじい活力とエネルギ一が生まれます。恐れるものは何もないからです。傷つけられるものは何もないからです。傷つくことがありえなくなるのです。
人間の積み上げたあらゆるものは、全的に放棄されなくてはなりません。それが死の意味なのです。』
(クリシュナムルティ・開いた扉/メアリー・ルティエンス/メルクマール社P251-252から引用)
『生きているあいだ、どの瞬間にも死ぬ』、これぞことごとく死人となりて成り果てる感覚である。『ことごとく死人となりて成り果てて 思いのままにするわざぞ良き』などと唐突に出されても、社会常識人には想像も理解も及ぶものではない。
『毎日が新しい日』というのも禅語の日々是好日の真相なのだろう。
この別天地の感覚は、至道無難だけでなく、一休にも見ることができる。