◎坐禅を学ぶ、坐仏を学ぶ
禅の六祖慧能の法嗣の南嶽懐譲が衡嶽の般若寺の住職だった時、馬祖は近くの伝法院で毎日坐禅をしていた。南嶽禅師は彼が見どころがあることを知り、伝法院へ行き質問した。
南嶽「坐禅をして何をしようというのか」
馬祖「仏になろうと思います」
すると南嶽は瓦のかけらを拾いあげ、庵の前の石の上で磨きはじめた。今度は馬祖が質問した。
「老師、何をしようとしているのですか?」
南嶽「瓦を磨いて鏡を作ろうとしている」
馬祖「瓦を磨いても、どうがんばっても鏡などできないでしょう。」
南嶽「それならば、坐禅してどうして仏になれようか?」
馬祖「ならば、どうすればよいのでしょうか」
南嶽「牛車に乗っていて動かない時に、車を打つのがよいか。それとも牛を打つのがよいか」
馬祖は答えられなかった。
南嶽はさらに言った。
「あなたは坐禅を学んでいるのか。坐仏を学んでいるのか。坐禅を学んでいるのなら、禅は坐臥ではない。坐仏を学んでいるのなら、仏に決まった相(定相)はない。無住の法において、まさに取捨してはならない。もし坐仏すれば、仏を殺す。坐相に執着すれば、その理に達しない。」
※無住:
如何なるものにもとどまらない。現象も、現象などもないところにあっても、すべては転変し、無常であれば、そのどこにも住することはできない。そうであれば、透徹した孤独感はそこにある。
六祖慧能の「無念を立てて宗となし、無相を体とし、無住を本と為す」を意識している。