アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

馬祖が瓦を磨いて仏になる

2022-11-07 06:20:53 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎坐禅を学ぶ、坐仏を学ぶ

 

禅の六祖慧能の法嗣の南嶽懐譲が衡嶽の般若寺の住職だった時、馬祖は近くの伝法院で毎日坐禅をしていた。南嶽禅師は彼が見どころがあることを知り、伝法院へ行き質問した。

 

南嶽「坐禅をして何をしようというのか」

馬祖「仏になろうと思います」

すると南嶽は瓦のかけらを拾いあげ、庵の前の石の上で磨きはじめた。今度は馬祖が質問した。

「老師、何をしようとしているのですか?」

南嶽「瓦を磨いて鏡を作ろうとしている」

馬祖「瓦を磨いても、どうがんばっても鏡などできないでしょう。」

南嶽「それならば、坐禅してどうして仏になれようか?」

馬祖「ならば、どうすればよいのでしょうか」

南嶽「牛車に乗っていて動かない時に、車を打つのがよいか。それとも牛を打つのがよいか」

 

馬祖は答えられなかった。

 

南嶽はさらに言った。

「あなたは坐禅を学んでいるのか。坐仏を学んでいるのか。坐禅を学んでいるのなら、禅は坐臥ではない。坐仏を学んでいるのなら、仏に決まった相(定相)はない。無住の法において、まさに取捨してはならない。もし坐仏すれば、仏を殺す。坐相に執着すれば、その理に達しない。」

 

※無住:

如何なるものにもとどまらない。現象も、現象などもないところにあっても、すべては転変し、無常であれば、そのどこにも住することはできない。そうであれば、透徹した孤独感はそこにある。

六祖慧能の「無念を立てて宗となし、無相を体とし、無住を本と為す」を意識している。

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