◎自分はなくなったものの神も見つからないという状況
最近のスピリチュアル系サイトでは、ノンデュアリティを語るものが多いが、その目標あるいは目指すべき境地として自分がないとか、自分がなくなるなど、ストレートに概念を持ち出すことが多いようだ。その結果、読者や修行者は冥想修行の方向性に迷うことが多いのではないだろうか。
自分がないということは単純に自分がなくなるということではない。自分が死んで、想像もできなかった有り様で、神なる自分あるいは仏なる自分として復活していくわけだが、そうした例として、このサイトでは、OSHOバグワンの覚醒事例や七日で悟る長沙和尚、瓊禅師などの例を挙げている。OSHOバグワンも久しく自分が死んでいる状態にあった。長沙和尚は、長期間かけはしなかったが、どうしても悟れなかったので、海に身を投げて命を断とうと思い詰め自分が死んで再生した。瓊禅師は、一坐一坐、日々に微妙な境地を体得することができたと、坐れば坐るほど境地が徐々に進むことをも示す。
どう自分がなくなって覚醒するかについては、
禅語録はその事例の宝庫であって、頓悟要門や禅関策進はその代表的な例である。ただ修行途中でどう思ったかなどはあまり細かく書いてはいないことが多い。
カトリックでもアビラのテレサや十字架のヨハネの書物は闇から光への進捗を測る上で貴重なものである。
かつてキリスト教系だがバーナデット・ロバ-ツという女性が、自分はなくなったものの神も見つからないという状況に陥って、四人の子がいたが日常生活ができなくなって、一人で山に籠って長期間生活して、神らしきものに結局出会うことができたという記録もある。
これは、彼女のその時々の暗夜や自分もないが神もないという中途半端で危険な状態などの心理状況について詳しく述べられており、貴重なものだと思う。
ただし、悟りは悟りかもしれないが、いわゆる大歓喜のようなものが見られないようなところはどうなのかと思うところがある。彼女もエクスタシーとは書いてはいる。それは起きることは起きたが、それをどの程度受け入れられるキャパが彼女にあったかという問題なのかもしれない。
自分が準備ができているかどうかという点とそれが起きるあるいはそれと出会うタイミングは、必ずしも合致しないということだろう。
参考:自己喪失の体験/バーナデット・ロバ-ツ/紀伊国屋書店
神はいずこに/バーナデット・ロバ-ツ/日本教文社