アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

暗夜から光へ-4

2023-02-12 06:49:48 | 究極というものの可能性neo

◎バーナデット・ロバーツの第三夜-1

(2006-08-29)

 

カトリックの冥想の進行は、例の冥想十字マップでいえば、垂直方向ではなく、水平方向に進む。十字架の聖ヨハネの第三夜は、神から個人への働きかけが主となる受動的な段階のことであるが、ヨハネは詳述してはくれなかった。

 

ここに第三夜の一つの例と思われる世界を見つけた。それは、バーナデット・ロバーツというカリフォルニアの中年女性が入った世界である。

 

『私が住んでいたところの近くの海のそばに修道院があり、わたじは午後暇があれば、よくそこの静かな聖堂で過ごしました。事の起こった日の午後もそこにいて、いつものように深い静寂に引き込まれ、それを破る恐怖の来るのを待ちましたが、それがなかなか来ないのです。

 

恐怖の期待か潜在的な恐怖によるのかわかりませんが、私はしばらくのあいだ不安定な状況に置かれ、自己と「不可知のもの」の間にある断崖に渡された一本の綱の上に立っているようでした。今度は向こう側に行ってしまうのか、それとも恐怖が起こっていつものように戻れるのか、それは自分で決定することができません。

 

身動きできないまま、内ではすべてが静まり停止しています。そのうちいつのまにか緊張が消え、それでも何か変化が起こるのを待っていましたが、それも起こらないまま深い沈黙の中に留まっていました。』

(自己喪失の体験/バーナデット・ロバーツ/紀伊國屋書店P15-16から引用)

 

その後の三日間は、深い沈黙の中に呑み込まれまいとする意識的努力を繰り返しながら家事をするが、疲れ切って座り込んでしまい、その途端に意識を失い、夢も見ず、周りを意識しないのが数時間も続いた。

 

9日くらいたって、段々普通の生活ができるようになって来たが、何かが欠けているという感じがあってそれを特定することはできなかった。

 

この感じは最初は記憶が失われたと感じ、後に「不可知」なるもの、つまり神に引き込まれたと解釈していたが、それでも納得できず、図書館へ行き、この体験を説明してくれていると予想した十字架の聖ヨハネの本を読みあさったが、この神秘体験について書いてはいなかった。

 

つまりこの神秘体験は、十字架の聖ヨハネの暗夜の第三夜以降のものと考えられるのである。第三夜特有の受動性もある。

 

バーナデット・ロバーツは、図書館の帰途、自分の内部にあるはずの中心がなく、そこは空っぽであることを知った。

その瞬間、静かな喜びがあふれてきて、なくなったものは自分の自己であることが分かった。

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