◎八番目のチャクラならざるチャクラ
(2019-04-12)
「八つのチャクラが、人間の絶対性の基本的ポイント」とダンテス・ダイジは、云う。
人間の絶対性とは、人間を外的な部分・社会と内的な部分・個人とに自分というものを区分して認識し、個々人が分かれていながら、同時に神・絶対者から個々人が流れ出ているものであって、今ここしかない今しかないが、過去現在があるものとして時間の流れを想定してしまう認識形態とでも言おうか。
個と全体の並立・共存と七つの次元に亘りながら、今ここという一つながりのものの不断の変容を現実と認識する一方で、それが夢幻でもあることをよく承知することもできる。
その意味で、芭蕉がその庵を幻住庵と名付けたのは至高のネーミングだと思う。
ダンテス・ダイジの『戯れに冥想を』から以下引用の続き。
『だが、アメンティーの教えでは、無限絶対それ自身を、生きているあいだに体験できるとされている。
そして、無限者・絶対者そのものから、直接、地球人として生誕した私は、当然、アメンティー・タントリストとなった。
私は、八番目のチャクラならざるチャクラを地球人として生き味わわずに、ニルヴァーナそのもの、つまり、いかなる顕現をともなわぬ非存在そのものとして、神の仮現としてではなく、神そのもの無限に帰郷することとして選んだ。
したがって、今、私は神自身である。』
『無限者・絶対者そのものから、直接、地球人として生誕した私』、これについては、ダンテス・ダイジがどこかで言及しているが、前世を遡って幻視していったら、個なる人間が彼の転生の始まりではないことを、確認したみたいなことを書いていることを思い出す。
要するに、我ら俗物連と同じではないやんごとなき人なのだ。
この文の前段で、『クリヤ・ヨーガの宇宙では一般に、すべてのすべてである究極のニルヴァーナは、死んでからしか自覚できないとされている。』とするのに対し、私は、死ぬことなく、生きながら究極のニルヴァーナ、大涅槃を生きていると宣言している。
死とニルヴァーナ突入そして再生という定番ルートの他にルートがあるかのように語っているわけだ。
ここは、二律背反なことを述べている可能性があるので、ここに書いていることは嘘かもしれないなどと別のどこかで書いていることを思い出させる。
だが8チャクラ説というのは、チャクラというも愚かな世界そのものの転変と人間の採る世界の見方についてのごくストレートな見方でもある。だが、誤解や偏見を最も排することのできる厳格な世界観でもある。