アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

ダンテス・ダイジの『死生観』-2

2024-12-15 03:20:36 | ダンテス・ダイジの風光

◎生まれて死んでまた生まれ、死んで生まれてまた生まれ

 

ダンテス・ダイジの死生観続き。

『死ぬというのは人の世の

果てにはあらず 

生魂(いくみたま)の

重荷下して休むとき

神のみ前に遊ぶとき

栄えの花の開くとき

歓喜充てる時ぞかし

またもや神の命令に

神世の宿を立ち出でて

再び人生の旅をする

旅は憂いもの辛いもの

辛い中にもまた一つ

都に至る限りなき

歓喜の花は咲き匂う

 

神の御子たる人の身は

生まれて死んでまた生まれ

死んで生まれてまた生まれ

*死んで生まれてまた生まれ

*どこどこまでも限りなく

堅磐常盤に栄えゆく

常磐の松の美し世の

五六七(みろく)の神の太柱

玉の礎つき固め

高天原に千木高く

宮居を造る働きは

神の御子たる人の身の

勤めの中の勤めなり

 

ああ頼もしき人の旅

ああ頼もしき人の身の

人は神の子神の宮

神と人とは生きかわり

死にかわりして永久に

五六七の世まで栄えゆく

五六七の世まで栄えゆく』

 

霊界物語第11巻第3章死生観に同一の文章がありましたので、この文に感銘を受けたダンテス・ダイジが筆写したものと思われます。

なお、上記文中*の2行は、ダンテス・ダイジ文にはなく、霊界物語にはあったので、当方で追記しました。

 

また霊界物語のこの部分に輪廻転生の見方がありましたので、挙げてみます。

『東彦『今度は真面目に聞きなさい。人間と云ふものは、神様の水火から生れたものだ。神様は万劫末代生通しだ。その神様の分霊が人間となるのだ。さうして、肉体は人間の容れ物だ。この肉体は神の宮であつて、人間ではないのだ。人間はこの肉体を使つて、神の御子たる働きをせなくてはならぬ。肉体には栄枯盛衰があつて、何時迄も花の盛りで居ることは出来ぬ。されどもその本体は生替り死替り、つまり肉体を新しうして、それに這入り、古くなつて用に立たなくなれば、また出直して新しい身体に宿つて来るのだ。人間が死ぬといふことは、別に憂ふべき事でも何でもない。ただ墓場を越えて、もう一つ向ふの新しい肉体へ入れ替ると云ふ事だ。元来神には生死の区別がない、その分霊を享けた人間もまた同様である。死すると云ふ事を、今の人間は非常に厭な事のやうに思ふが、人間の本体としては何ともない事だ』』

(霊界物語第11巻第3章死生観から引用)

 

人間は、神の生き宮であって、肉体は乗り物。肉体が死ねば、次の人生では次の別の肉体で出るが、人間の本質が神の生き宮ということは生きようが死のうが変わらない。

神には生死の区別がないように、人間にも肉体の乗り替えはあるが、このように人間の本質に生死の区別はない。だからと言って前世記憶を持ちながら生きるのは大変なので、前世記憶は持たせず再生してくる。

この故に上掲

『神と人とは生きかわり

死にかわりして永久に

五六七の世まで栄えゆく』なのである。

 

さて人の輪廻転生は永久に終わらないという見方は、解脱がないという見方。永久に終わらないという見方は、過去現在未来が一緒になった、今日只今しかないという現実感覚を想定しているように思う。何の問題もない世界だけが真実、これが、堅磐常盤(ときわかきわ)に栄えゆくということ。

 

※生魂について

玉の礎(出口王仁三郎)から以下引用:『(百十五)「死んで居らぬ」言ひやうと、聴きやうに依りて、生身ともなり、死身ともなるべし。日之出之神は瑞(みず)の御魂に引添ひて、高天原に現れ給へども、誰も知るものなし。生身と生魂の区別をよく弁へて、不覚を取るなかれ。肉体そのままにて神に使はるる者は生身なり。肉体を替へて神に使はるる者は生魂なり。生魂の働きある者はその者の肉体生きたると同じきなり。』

 

つまり肉体が生きているのが生身、肉体が死んでも生きていても活躍できるのが生魂。人は生きていれば、生身として神に使われ、死ねば生魂として神に使われる人もいる。一般に人は生き死ににかかわらず神に使われる。だが、生きていながら神に使われない場合もあるのだろう。

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