◎古神道の奥義開陳
ダンテス・ダイジの断簡に古神道関係のものはほとんどない。道場の壁に墨色黒々と、出口王仁三郎の高熊山での開悟の歌『われは空行く鳥なれや』の一節を彼が揮毫したのを見たことがある程度だ。
以下は、珍しいダンテス・ダイジの古神道の死生観を歌ったもの。出口王仁三郎の霊体からダンテス・ダイジは、古神道の奥義を受けたが、誠に出口王仁三郎直伝をうかがわせる。
『天と地とは永久に
陰と陽との生き通し
神の水火(いき)より生まれたる
人は神の子神の宮
生くるも死ぬるも同じこと
これをば物にたとうれば
神の世界は故郷の
恋しき親のいます家
この世に生まれた人生は
露のしとねの草まくら
旅に出でたる旅人の
クス野をたどるが如くなり
辿りたどりて黄昏に
いずれの家か求めつつ
これに宿りしその時は
この世を去りし時ぞかし
一夜の宿を立ち出でて
またもや旅をなす時は
まだ人間と生まれ来て
神の働きなす時ぞ
生まれて、一日働いて
死んで、一夜をまた休む』
(続く)
生き通しというのは、人が輪廻転生を永遠に繰り返すということではなく、現象世界の転変が止むことはないということ。輪廻転生の終わりはあると思う。
※クス野:三五(あなない)教(大本教のこと)の宣伝使が、アルタイ山を右に見て、西へ西へとクス野ケ原の曠野を進んで宣教するシーンが霊界物語第10巻から11巻にかけて展開している。
日中が活動の生で、夜が休息の死で、生が旅路で、死が生家での休息。生と死は分断していないと見る。これはマンツーマン輪廻の実態からすればどうかというところはある。