アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

只管打坐の7ステップ-4

2023-09-19 07:01:31 | 只管打坐neo

◎絶対に買えない最高の逸品

(2007-10-27)

             

ダンテス・ダイジは、身心脱落のことを「宇宙と一体という経験のみにとどまらない、全くの何の限定も受けない、空であるところの、唯一存在するところであるところの、あるいは唯一非在であるところの自分自身に目覚める道」と説明している。

 

いきなりこういう説明を受けても、とっつきにくく、全くの何のことやら想像を絶してしまう。大体こんな説明をするから、折角門前まで来て中を見ようとする物見高いお客さんをみすみす帰してしまうようなものだとつくづく思う。

 

そこで、クリシュナムルティの生き方や著作を見ると、それがどんなものなのか、段々見当がついて来るのではないだろうか。そうは言っても、クリシュナムルティのやり方だって、「この品物はどんなに頑張っても買えませんが、こんなに素晴らしい品物でーす」みたいな宣伝をしているようなところはあるけれど。

 

ダンテス・ダイジの只管打坐の7ステップは、これだ。

『ステップ1.

固定静寂

エネルギー

パワー

 

ステップ2.

あたりまえな生命の暖かさ

意識する必要のない大安心

完全にあたりまえに生きていること

 

ステップ3.

至福

Every thing is ok の情熱と平安

実用的な霊的ビジョンと鋭敏な感受性

 

ステップ4.

すべてが自己である愛・慈悲

大いなるすべてのものに対するいとおしさ

すべてが一体であるという感謝

底知れぬ生命の絶望と悲しみ

 

ステップ5.

カオス・全面的な真っ暗闇

パーフェクトにデリケートなあらゆるもののクリエーション

美と調和のバイブレーション

 

ステップ6.

あらゆるレベルでの智恵・インスピレーション

直感・個生命としての完全な納得

個我を残した時点での限界的英知

Everything is Everything

 

ステップ7.

エクスタシー・すべてのすべて

身心脱落・脱落身心

究極の根底・ニルヴァーナ

唯一の私自身・私自身がない私自身

すべてのものとなって現れている私自身

 

(注1)どの時点でどのステップが出てくるかわからない。

(注2)人により、第一番目から六神通を持つ場合もあり得る。

ただし、それにとらわれてしまえば只管打坐の進行は自動的に止まってしまう。

(「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」/ダンテス・ダイジ/森北出版P120から引用)

 

最初にこのステップを見た時にはこのプロファイルの根底にある原理原則など想像もつかなかったが、今見てみると七つのステップとは、七つのチャクラに照応した区分になっていることがわかる。

 

ダンテス・ダイジは、只管打坐のステップなどというものは、はなから問題にしていないが、ステップなどというものがあるとすればという条件つきでこのステップの説明を始めている。

 

我々が只管打坐を知的にイマジネーションするに当たっては、こうしたステップを相手にしないものこそが只管打坐であるという彼の説明全体に横溢する自由奔放な気分を、忘れてはならないだろう。

 

イメージが掴めても掴めなくても、さあ坐ってみよう。

 

きちんとした理由を示すことなどできないが、自分が気に入っている身の回りの道具や持ち物や、この劣悪だが素晴らしい文明の息吹は、それによっていくらでも残ることになるのではないだろうか。

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