◎絶対者の体得・絶対の全面的覚醒が純粋冥想
『ヨーガとは、純粋冥想へ到るための合理的な行為の連鎖的な体系である。したがって、ハタ・ヨーガから始まる全ヨーガ的な努力は、チャクラやクンダリニーというイメージやヴィジョンのマインド・ゲームではない、身体上の死の超越すなわち不死性の獲得たる真実のクンダリニー・ヨーガへ到達するはずである。
また、一切の仮設を排除した知的全面的探索は、ジュナーナ・ヨーガと呼ばれていたものだが、むしろ、真実の公案禅において完璧な結晶化が見られる。
そして、人間性の救済への一切の努力が無意味であることが知的にではなく、 全面的に理解されれば、そこに真実の只管打坐が、果てしなく開けている。
絶対者の体得・絶対の全面的覚醒を、純粋冥想とすると、それが、どのような違ったアプローチに見えようとも、結局は、禅か、クンダリニー・ヨーガに包含されている。
最終的には、絶対者の究極的覚醒は、同一だとしても、それぞれのアプローチには、それぞれのニュアンスの違いが、最後までつきまとうことは、否定できない。
今、禅とクンダリニー・ヨーガに限って、絶対者のどの側面が強調されるかを見てみよう。
公案禅は、絶対者の大自然と肉体生命として現出した機能的側面。
クンダリニー・ヨーガは、肉体すなわちボディ・マインドの死後と絶対者の多次元存在として現出している全実在の構造的側面。
そして只管打坐は、絶対者のニルヴァーナとしての非根源的な根源的側面が、それぞれ強調されている。
以上は、真正の公案禅・クンダリニー・ヨーガが、只管打坐に関しての、その重点的な側面もしくは位相、すなわちニュアンスの違いである。
そして、真正の禅もしくはヨーガなどの純粋冥想は、真正の覚者との出会い抜きには、あり得ない。それが、純粋冥想が決してメソッドやセラピーとして成立しえないゆえんである。』
(アメジスト・タブレット・プロローグ/ダンテス・ダイジ/森北出版Pⅳ~ⅴから引用)
最初にクンダリニー・ヨーガの説明が置かれている。いきなりインド伝来のクンダリニー・ヨーガがクンダリーニ・ヨーガ系冥想の代表として置かれている。これで想定されているのは、『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』において彼自身が披歴している、脱身からニルヴァーナの道筋であって、
『身体上の死の超越すなわち不死性の獲得』に至らなければ十分とは言えないということ。そのレベルに至って、脱身以降は、道教の柳華陽や、古神道の出口王仁三郎の示す『無我の境と云ふ事は、天地の神と融合したる状態』のように宗派を超えて共通の、肉体からニルヴァーナへのハイウェイが広がっていると見るべきなのだろうと思う。
禅といえば、公案禅と只管打坐という2テクニックが代表的冥想法。公案によってとある哲学的世界を構築し、絶対的に解のないことに素直に向き合えば、絶対無の自己同一化という恩寵は起こり得る。ダンテス・ダイジは、隻手の公案を透過した。彼は隻手の音声の中に『絶対者の大自然と肉体生命として現出した機能的側面』を見たのだ。
だが公案禅は、密参禅など悟りとは無縁の安易な道に逸れやすいという側面もある。
只管打坐のやり方は普勧坐禅儀などに出ている坐り方で、背骨を垂直にしさえすれば、身心脱落が起こるが、実際はいうほどに簡単ではない。『人間性の救済への一切の努力が無意味であることが知的にではなく、全面的に理解』することが、只管打坐の冥想姿勢・ポスチャーにあるのだろう。また『絶対者のニルヴァーナとしての非根源的な根源的側面』は、彼の示す只管打坐の7ステップから当たりをつけることができる。
そして最後に、真正の覚者との出会いがなければ、その冥想は、なんちゃって冥想、ファッション瞑想、坐法・メソッド、セラピー止まりとなる。一時的にはよい状態があるかもしれないが、結局何も解決しないという手法群である。