アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

天消地滅-神人合一-1

2023-09-01 06:40:16 | 人と神の「実際のところ」

◎神への恋愛

 

出口王仁三郎の窮極の表現は、「無我の境」だが、それについて語っているところは少ない。最近更にそれを語っているところはないかと、霊界物語全巻の余白歌を抜粋したりしてみたが、はかばかしくなかった。

そこでふと目に留まったのが、天消地滅というワード。

以下の出口王仁三郎の文を読むと、彼は信者が神さまを恋い慕い、神さまが信者を愛したまうのが、天消地滅であるとする。これも神人合一の一つの相である。

 

『恋というのは子が親を慕うごとき、または夫婦がたがいに慕いあうごとき情動をいうのであって、愛とは親が子を愛するがごとき、人類がたがいに相愛するがごとき、情動の謂いである。信者が神を愛するということはない。神さまを恋い慕うのである。神さまのほうからは、これを愛したまうのである。ゆえに信仰は恋愛の心というのである。

 

恋愛となるとまったく違う。善悪、正邪、美醜などを超越しての絶対境である。おたがいがまったくの無条件で恋しあい、愛しあうので、義理も人情も、利害得失も、なにもかも忘れはてた境地である。だから恋愛は神聖であるといいうるのである。

 

いまの若い人たちが、顔が美しいとか、技倆が優秀であるとかいう条件のもとに惚れ合うておいて、神聖なる恋愛だなどというのは、恋愛を冒潰するものである。そんなものは神聖でもなんでもない、人に見せて誇らんがために、若い美貌の妻をめとりて熱愛する夫にいたっては、まったく外分にのみ生きるものであって下劣なものである。

 

真の恋愛には美もなく、醜もなく、年齢もなく、利害得失もなく、世間体もなく、義理もなく、人情もなく、道徳もなく、善もなく、悪もなく、親もなく子もない。まったく天消地滅の境地である。

 

人として真の恋愛を味わいうるものが、はたして幾人あるであろうか。どんな熱烈な恋といえどもたいがいは、相対的なものである。神聖よばわりは片腹いたい。現代の不良青年などが、恋愛神聖をさけんでかれこれと異性をもとめて蠢動するのは、恋愛でもなんでもない、ただ情欲の奴隷である。』

(出口王仁三郎著作集第3巻愛と美といのち/恋愛と家庭/恋愛は神聖から引用)

 

出口王仁三郎は、情の人。神へのアプローチは、知から入る人、情から入る人、意(観想)から入る人とあるが、彼は、情、恋愛から入り、天消地滅という無我の境という窮極に至った。出口王仁三郎は愛の人、慈悲の人なのである。

 

なお、霊界物語第64巻上 山河草木第16章天消地滅の段には、

『晴れもせず曇りも果てぬ橄欖山の

月の御空に無我の声する

行先は無我の声する所まで

無我の声あてに旅立つ法の道

父母の愛にも勝る無我の声』

とあり、天消地滅とは、無我のことであることを示す。

 

無我と一句だけ示しても、人は何のことか想像もつかないのが普通なのだ。

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