◎神への恋愛
出口王仁三郎の窮極の表現は、「無我の境」だが、それについて語っているところは少ない。最近更にそれを語っているところはないかと、霊界物語全巻の余白歌を抜粋したりしてみたが、はかばかしくなかった。
そこでふと目に留まったのが、天消地滅というワード。
以下の出口王仁三郎の文を読むと、彼は信者が神さまを恋い慕い、神さまが信者を愛したまうのが、天消地滅であるとする。これも神人合一の一つの相である。
『恋というのは子が親を慕うごとき、または夫婦がたがいに慕いあうごとき情動をいうのであって、愛とは親が子を愛するがごとき、人類がたがいに相愛するがごとき、情動の謂いである。信者が神を愛するということはない。神さまを恋い慕うのである。神さまのほうからは、これを愛したまうのである。ゆえに信仰は恋愛の心というのである。
恋愛となるとまったく違う。善悪、正邪、美醜などを超越しての絶対境である。おたがいがまったくの無条件で恋しあい、愛しあうので、義理も人情も、利害得失も、なにもかも忘れはてた境地である。だから恋愛は神聖であるといいうるのである。
いまの若い人たちが、顔が美しいとか、技倆が優秀であるとかいう条件のもとに惚れ合うておいて、神聖なる恋愛だなどというのは、恋愛を冒潰するものである。そんなものは神聖でもなんでもない、人に見せて誇らんがために、若い美貌の妻をめとりて熱愛する夫にいたっては、まったく外分にのみ生きるものであって下劣なものである。
真の恋愛には美もなく、醜もなく、年齢もなく、利害得失もなく、世間体もなく、義理もなく、人情もなく、道徳もなく、善もなく、悪もなく、親もなく子もない。まったく天消地滅の境地である。
人として真の恋愛を味わいうるものが、はたして幾人あるであろうか。どんな熱烈な恋といえどもたいがいは、相対的なものである。神聖よばわりは片腹いたい。現代の不良青年などが、恋愛神聖をさけんでかれこれと異性をもとめて蠢動するのは、恋愛でもなんでもない、ただ情欲の奴隷である。』
(出口王仁三郎著作集第3巻愛と美といのち/恋愛と家庭/恋愛は神聖から引用)
出口王仁三郎は、情の人。神へのアプローチは、知から入る人、情から入る人、意(観想)から入る人とあるが、彼は、情、恋愛から入り、天消地滅という無我の境という窮極に至った。出口王仁三郎は愛の人、慈悲の人なのである。
なお、霊界物語第64巻上 山河草木第16章天消地滅の段には、
『晴れもせず曇りも果てぬ橄欖山の
月の御空に無我の声する
行先は無我の声する所まで
無我の声あてに旅立つ法の道
父母の愛にも勝る無我の声』
とあり、天消地滅とは、無我のことであることを示す。
無我と一句だけ示しても、人は何のことか想像もつかないのが普通なのだ。