◎先進国と発展途上国
旧約聖書のヨブ記では、神がサタンの悪意の行使を認めたばっかりに、行ないの正しいヨブが、子供を殺され、財産を失い、不治の病に苦しむことになる。
さてこの世には2種類あって、神とサタンがいてその振幅の間を揺れ動く世の中と、神とサタンが結婚(天国と地獄の結婚)した世の中である。
大雑把にいえば、発展途上国の人の大半は、神とサタンがいてその振幅の間を揺れ動く世界に生きている。
一方先進国の人の多くは、神とサタンの結婚を主要テーマとして生きている。
それはなぜかといえば、発展途上国の人々の多くは社会的成功、西洋流に言えば自己実現という、火星、マニピュラ・チャクラにシンボライズされた人生を生きているからであり、先進国の人の多くは、その先にある、金星でシンボライズされるアナハタ・チャクラ、「愛」、換言すれば、神とサタンの結婚の姿であるアートマン、この「ひとつながりのもの」を目指す人生を生きているからである。
ヨブは、先進国に生きる人がモデルである。見神をしたとしても、その人生は傍目には悲惨極まりないものであるかもしれない。
唐代の禅僧普化は佛を知る僧であったが、町の人に食を乞う姿はロバみたいだと馬鹿にされると、「ヒヒーン」とロバの鳴き声をして見せ、高僧臨済と一緒に招かれた街の篤信家の設けた御馳走のテーブルを蹴り倒して顰蹙をかうほど、社会性のない人生を生きて見せた。
社会性は、火星、マニピュラ・チャクラの側。金星、アナハタ・チャクラは非社会性ではなく、社会性も非社会性も分け隔てなく愛に取り込む。
覚者はとてつもなく孤独なものだから、時に孤独と裏腹である非社会性を現ずる。ヨブは、十分に社会性を尽くした人生だから、サタンのいたづらで一時はあるいは一生はひどいめに遭っても、遠からずあらゆるものは整うだろう。
だが、人間である以上結局救いはない。不幸と苦悩と不条理のどん底に生きる人生であっても何の問題もない。ヨブ記はそこを確認できるかどうか試しているのだと思う。