◎アストラル体レベルまでは通用する観想法
観想法の一つの用例として、本山博のマニピュラ・チャクラの覚醒行法を見てみる。
『マニプラの覚醒行法
さて、マニプラの行法をごく簡単に説明しましょう。
息を吸う時に、頭のてっぺんから神様の力、プラーナがスシュムナを通ってマニプラあるいは臍に下りてくる。そして同時に下のクンダリニーからアパーナがマニプラあるいは臍に上ってきて、ここでプラーナとアパーナが一つになると強く思念するのです。プラーナ、これは支那流に言えば陽の気、アパーナは陰の気で、陰と陽をマニプラで合わせて、陰でも陽でもない元々の一つのものにするのです。
一つの力、そういうのを道教では「タオ」というわけです。絶対の一のことを、道教ではタオと言うし、仏教では無と言い、禅では空と呼ぶが、要するに元々一つだったのだから、分かれたものを一つにする、そういうふうに想うわけです。それを二十回とか三十回あるいは一時間とかというふうにするのですが、その時に「想念する」、つまり上の力と下の力を元の一つの力にする、と「想う」ことが大事なのです。想う、ということは、さっきも言ったように、アストラルの次元(マニプラというのは特にアストラルの次元とつながっている)の心の働きだから、想うことによって、アストラルのプラスとマイナスのエネルギーがここマニプラで本当に一つになってしまうのです。だからまず、非常に強く想わないとだめなのです。
「想う」というのは、アメリカではビジュアリゼーションと呼ぶが、要するに観想法のことなのです。想いを観る、ということ。しかし観想法ではアストラルの次元までしかいかなくて、それから上にはいけない。アメリカの人たちは、主に観想法を習います。グルたちがそれしか教えない。しかしそれではアストラルのところで止まってしまって、それ以上にはなかなかゆけない。チベットのラマ僧たちがやっているのも主としてこれだから、なかなかこれから上にはゆけないのです。
想うだけではアストラルで止まってしまうから、神様のことを想ったら、それを最後には消してしまわないとだめなのです。アストラルの次元で止まってはだめで、アストラルを超えるためには、それを消さなければいけない。しかし、それは想念で消すのではない。そういうやり方だけではなかなかアストラルから上がれないのです。
観想法はしかし、アストラルの次元までの進歩は非常に速い。アストラルの次元へどんどん入っていくのには、観想法を使うといいのです。だから、マニプラが不安定で、マニプラをうんと動かさなければいけないタイプの弟子にはいい行法だと思います。
以上のように、呼吸法に合わせて上の力と下の力をマニプラで一つにすると「想う」ことが、マニプラを動かす非常に重要な方法なのです。』
(チャクラの覚醒と解脱/本山博P128-129から引用)
アストラルで止まっていては、見ている自分はなくなることはない。
観想とは、〇〇を現実化すると強く想念することだとばかりと思っていたが、アストラル体レベルを超えるとそうはいかないという。チベット密教では空性の観想というのがあるが、それがアストラル体レベルを超える観想の一例かもしれない。