◎粗雑なバイブレーションと現実操作
世間のクンダリーニ・ヨーガを見る目からは、「修験や真言、天台、古神道などのクンダリーニ・ヨーガ系は、現実を自分の思うがままに変えてしまえる手段である」という見方が圧倒的である。
ところが、空海の著述を見ても、そのような世俗を意識したところは微塵もないし、修験三十三通記を見ても、出口王仁三郎の天消地滅を見ても、そのような世俗に堕したところはない。というのは、いずれも大日如来や大神つまり絶対の側から書かれたものであり、そのポジションからは、もはや自分勝手な思いからの自分の思うがままの現実操作はあり得ないからである。
秘教、秘儀などというクンダリーニ・ヨーガの話題になると、個人的な野望実現のために神霊を駆使したとか、霊界の強大な力を利用して歴史を曲げたなどの興味本意の見方が多いことは、本来のクンダリーニ・ヨーガのあり方からすれば、枝葉だけを見た見解に過ぎない。
クンダリーニ・ヨーガは、そうしたことに留まるものではなく、人間であることのあらゆる苦悩、不条理を超えて、窮極に飛び込み、窮極の側から立ち戻り、この世に大日如来・天照太神から流れだすあらゆるビジョンを具現しようとするものなのだろうと思う。
イエスの時代は、イエスだけが道を説いても何世紀もかけて道を世界に伝播することができた。今は逆に世界のあらゆる下らないニュースさえ瞬時に世界に伝播する時代。
そしてニッポン・チャチャチャの国民を挙げた言霊が、女子バレーボールや、ワールド・カップ・サッカーで通用しなかったように、言霊による現実操作というクンダリーニ・ヨーガの十八番が通用しないほど、現実は言霊で操作できるほどのデリカシーを失い粗雑なところに変質している。
このように昔ながらの言霊が通用しない時代だからこそ、最強の言霊発信機である個々人が冥想によりそのバイブレーションをノーマルなものに日々チューニングしなければ、毎日多くの家庭や職場や学校や街角で起きている混乱は止むことはあるまい。
後醍醐天皇は、現職の天皇でありながら、自ら法服をつけて、船上山の皇居に仏壇を設け、幕府呪詛の金輪の修法(真言密教の祈祷)を行い、7日目に日・月・金星が輝いて、壇上に並んだので、これは御願いが直ちに成就するしるしであると頼もしく思し召されたという記事を読んで、このように感じた。