◎私に殺す心があるからです
禅の食事作法では、生飯といって餓鬼に施すため米飯数粒を膳のわきにのけて、係が全員の生飯を集めて野鳥に供する。
ある日、院主が鳥に生飯をやろうとしているのに、なぜか鳥が皆飛んで逃げる。
趙州「鳥はあなたを見て、どうして鳥が飛んで逃げるのですか?」
院主「私がこわいからです。」
趙州「なんということを言っているのだ。」
趙州は、院主に代わって言った「私に殺す心があるからです。」
現代人は、何はさておきメリット・デメリット、タイパ、コスパと他人を出し抜いて一円でも儲かってやろうという気持ちの人が多い。幼少時から、敵をせん滅することを繰り返すモバゲーで成長してきたせいか他人を殺し続けるのはお手のもの。
だが四六時中そればっかりでは、一日のうちにどうしても安らぐ時間を求めることになる。
冥想、瞑想は、本来そんなリラックスのための道具ではないが、半ば精神病の人が正気とされる現代では、まずだんだん呼吸を落としリラックスから冥想を始めるのも致し方ないことだと思う。
内心で鳥を殺そうとしている院主の心は、ともすれば現代人の心であって、意馬心猿。
自分の癒しのためにペットを飼い始め、諸事情で殺処分のために市役所に持参したり、捨て犬・捨て猫をしたりということもあるのだろうが、殺す心がなければそういうことにはなるまい。
キリスト教は愛の宗教、只管打坐でも愛・慈悲を知る時節がある。愛や癒しを求めても、他人やペットを殺す心が心の奥底に残っていては、野鳥にも覚られようというもの。