アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

クンダリーニ・ヨーガの源流-2

2024-05-13 06:17:58 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎仮死で「ただある」

(2014-11-05)

 

(承前)『五感の知覚も思考力も停止し、理性も活動しない時、それを人々は最高の帰趨という。

その確固とした感覚器官の保持を、人々はヨーガと理解する。そのとき人は心を散らさなくなる。なぜならばヨーガは(内的な力の)発現であり、(最高の帰趨への)没入であるから。

ことばによっても、思考力によっても、視覚によっても、それ(アートマン)は得られない。それは「ある」という以外には、どのようにして理解されよう。

 

ただ「ある」というようにのみ、それは理解されるべきである。両者(理解するものとされるもの)の同一である状態として。ただ「ある」というように理解されたとき、(両者の)同一である状態が明らかになる。

 

彼の心を拠りどころとするすべての欲望が追放されるとき、死すべきものは不死となり、この世においてブラフマンに到達する。

 

この世において心の結び目がすっかり解きほぐされるとき、死すべきものは不死となる。

 

以上が(このウパニシャッドの)教えである。』

(世界の名著 バラモン経典/中央公論社P150から引用)

 

五感も停止、思考も停止、理性も停止するとは、肉体機能が停止し、アストラル体に帰属する感情も動かず、メンタル体に帰属する想念も動かない状態と見ることができよう。ここでは冥想による仮死状態が前提とされていると見ることができよう。

 

まず「その確固とした感覚器官の保持」ともあるので、クンダリーニ・ヨーガ特有の聞き守る、見守るという冥想の基本がここで確認されている。

 

この時心の散乱がないということであるから、ダーラナー(総持)という心の一点集中を経て、冥想する対象と冥想する自分がつながりディアーナ(定)の状態となる。密教では、冥想(観想)対象として多数の尊格を用いるが、ウパニシャッドでは、その対象が何であるかは、最終段階ではあまり問題にする必要はないものであると見ていることがわかる。

 

最後に冥想する者と冥想する対象が一体となる、サマーディ(三昧)の状態となり、ただ「ある」だけとなる。

 

例によって「ただある」というアートマンに到達したら、論理的説明抜きで、次のブラフマンに行ってしまうかのようだ。

 

 

【チャクラと七つの身体-320】

◎アートマン-24

2.ウパニシャッド ◎クンダリーニ・ヨーガの源流-2

(ザ・ジャンプ・アウト374)

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クンダリーニ・ヨーガの源流-1

2024-05-13 06:09:57 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎ウパニシャッド「死神の秘教」

(2014-11-04)

 

カタ・ウパニシャッドの死神の秘教は、賢者ナチケータスが死神に死の秘密を明かしてもらうストーリー。ここでは、アートマンがあって、ブラフマンがあってというのが前提となっているので、これはクンダリーニ・ヨーガ的世界観、修行体系の中の話となる。

 

この章の冒頭に世界樹アシュヴァッタ樹が説明され、その根が上方にあり、枝が下方にあると説明される。根とは頭頂サハスラーラ・チャクラのことであり、他の6チャクラがそこから展開することを枝と謂う。アシュヴァッタ樹は永遠であり、不死である。

 

また全世界の比喩として、大きな恐怖、振りかざされた金剛杵(武勇神インドラの武器)も用いられる。金剛杵は、密教の秘儀のシンボルであり、真言密教、チベット密教の金剛杵のそもそもの出所はここにあることがわかる。みじめでちっぽけな自我の上に真っ向から振り下ろされようとする全世界がダイヤモンド・ハンマーであることを知る人は不死となる。

 

『感覚器官よりも思考力がすぐれ、思考力よりも純粋存在の方が高次である。純粋存在よりも大きいアートマンがまさり、大きいものよりも未開展のものが上位にある。

 

しかし未開展のものよりも、遍満し、まったく(その存在を示す)徴表を持たない精神原理(プルシャ)がすぐれている。彼(精神原理)を知って被造物は解放され、そして不死の状態に到達する。

 

彼の姿は目に見えず、だれも彼を目で見ることはない。彼は心によって、思惟によって、思考力によって表象される。このことを知る人は不死となる。』

(世界の名著 バラモン経典/中央公論社p149-150から引用)

 

純粋存在(サットヴァ)とは、コーザル体か。大きいアートマンよりも上位にある「未開展のもの」はブラフマン。

ブラフマンの更に上に「精神原理(プルシャ)」を置いている。「精神原理(プルシャ)」は、遍満し、まったく(その存在を示す)徴表を持たないという性質なので、アートマンのことと考えられる。ブラフマンよりもアートマンが上位かどうかという議論には意味がないように思うので、この書き方にはある意図を想像する。

 

【チャクラと七つの身体-319】

◎アートマン-23

2.ウパニシャッド ◎クンダリーニ・ヨーガの源流-1

(ザ・ジャンプ・アウト373)

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第六から第七へは、究極の死

2024-05-13 03:27:32 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-4

◎アートマン-4

◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-3

◎冥想の効用のない部分-3

◎語り得ることは何もない

 

第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性についてOSHOバグワンは、最も詳しく説明している。

 

『第六から第七へ入っていくことは、究極の死だ。これを知ったらあなたは驚くだろうが、アチャリアとは、古くは最後の死を教える者という意味だった。「教師(アチャリア)は死だ」という格言がある。 だから、ナチケタが死の神に至った時、彼はアチャリアに至った。死の神は死の事以外、何も教えられない。アチャリアとは、ただ、死滅、崩壊、消滅だけを説くことができる者への名称だ。

 

(中略)

 

第六から第七に入る時に、放棄は起こる。そこではあなたというものを投げ捨てる ― なぜならあなたには、それ以外に何もないのだから。あなたはまさに、自分の実存を捨て去る。

 

唯一、意味ある放棄は、第六から第七の次元に入ることだ。それ以前では放棄について語ろうと、すべて子供じみている。「これは私のものだ」と言う人は愚かだ。「私は自分の物をすべて捨てた」と言う人も愚かだ。彼は、依然として所有者だと主張しているのだから。ただ自分自身だけが、自分のものだ―――しかし、人々はこれを理解していない。

 

だからあなたは、第五から第六にかけて自分が誰かを知り、第六から第七へは、自分であるものを放棄できるようになる。

 

自分であるものを放棄した瞬間、もはや成就すべきものは何も残らず、放棄されるものも何もない。そして、どんな問いすらも残っていない。そこには限りなき静寂、永遠の沈黙がある。その後は、至福や平和があるとも言えない。真実や偽りがあるとも、光や闇があるとも言えない。語り得ることは何もない。これが第七の次元の世界だ。』

(奇跡の探求2-七身体の神秘/和尚/市民出版社P367-368から引用)

 

ナチケータの故事は、古代インドのカタ・ウパシャッドに出てくる。ナチケータが死神にいろいろ教わるが、結局個人なる自分が死んで、アートマンに至る。

 

次に「自分であるもの」とは第六身体アートマンのことだが、これは個人でなく、個人を含む宇宙全体、世界全体のこと。それを前提に、第六から第七へは、自分であるものを放棄する。これが秘儀中の秘儀。これを説明した文章にはなかなかお目にかかることはない。

 

更に第七身体には、限りなき静寂、永遠の沈黙だけがあって、至福も平和も真実も偽りもなく、光や闇すらない。

この点で、至福だ平和だ、真理だ偽りだ、光だ闇だを究極と位置づけている宗教は、考えてみる必要があるのだろうと思う。

OSHOバグワンは、究極ニルヴァーナのことを仮に限りなき静寂、永遠の沈黙と称しているだけのこと。だが、大衆宗教、世界宗教で、「究極とは、何だかよくわからないものです。」とやれば、収拾がつかず組織の統制はとれにくいものだろう。それでも、禅はそれをやり続けてきたということはある。

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迷いから究極までの段階の数

2024-05-12 03:46:25 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-2

◎ケン・ウィルバーのアートマン・プロジェクト

 

ケン・ウィルバーは、アートマン・プロジェクト(P380-388)において、肉体レベル自意識から一円相に相当する究極までの段階を、究極のレベルを持つカバラの10球の生命の木やインドの6身体論と並置している。加えて、究極のレベルを持たないピアジェやエリクソンの意識の発展段階までも並置して見比べることができるようにしている。

つまり、最初はプレローマやウロボロスなる肉体意識ではじまり、ニルヴァーナなる窮極で終わるのだが、全体としての段階は、カバラのように10球の10段階でもよいし、七つの身体でも六つの身体でもよいと段階の区分へのこだわりを捨てさせている。

 

禅の十牛図の段階も十牛図あり、六牛図あり、四牛図があり、「牛かひ草」では、十二牛図なのだが、10段階にこだわっているわけではない。

 

意識の発達は、最初は個我の迷いに始まり、神仏ニルヴァーナの究極で終わりさえすればよいのであって、全体としての段階の数は、あらゆる見方の一つに過ぎない。

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ニーバーナ、アーメン、カミという無用の用

2024-05-12 03:18:04 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-3

◎アートマン-3

◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-2

◎冥想の効用のない部分-2

◎正体不明の側の方が重要

 

第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性については、何も説明しない場合が多いのだが、OSHOバグワンとダンテス・ダイジだけはかすかに説明している。

 

ダンテス・ダイジの説明の一つが以下。

『無限生命の絶頂を完全な解放を意味するニルヴァーナというサンスクリット語はアトランティス当時の正確な発音ではニーバーナとしたほうが良いであろう。

ニーバーナとは、ニーが無、バーナが有を表し、これはアメンと同じ意味の真言(言霊)であった。

 

 無          有    (タオイズム、禅仏教)

 ニー         バーナ   (主にインド・ウィグル)

 メン         ア     (主に古代エジプト・アトランティス)

 メン         アー    (キリスト教)

 ム          オー    (サンスクリットのマントラ・オーム)

 ウン         ア     (真言密教)

 カ          ミ     (日本古神道)』

(未公刊の断簡「超人ダンテス(又はダンティス)の伝説」/ダンテス・ダイジから引用)

※ウィグル:ダンテス・ダイジは、古代にウィグルという世界帝国が存在したことに言及している。

 

この対称表は、アーメン、オーム、カミという音を二分割しただけというように読むと何も進展しない。あるいは無と有と並列すれば、それはペアかもしれないと思うがそれでは何も起こらない。

各宗派の修行シーンのメジャーな目標は、自分を棄てて神仏に至ることだが、神仏についての説明は、往々にしてこの対称表の右側のことであって、左側は何のことやら正体不明なので、言及はするがなんだか当たらずさわらずの説明がされていることも多い。

この対称表では、左にニルヴァーナ・無のサイドを配置して、ニルヴァーナが有・アートマンより上位であることを示す。左サイドが説明不能、呼び名不明であるにもかかわらず・・・。そこがクリティカル・ポイント。左側をわけがわからないからと言って退けてはならぬ、と未悟の者に示しているのではないか。

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クンダリーニとアートマンの合体

2024-05-11 16:37:16 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-1

◎そのものズバリに近いが証明は困難

 

クンダリーニがアートマンに変じてブラフマンと合体する件については、ダンテス・ダイジが、神の許しを給わった上で恐る恐る書いている(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ)。

クンダリーニとブラフマンの合体については、凡そ想像を絶したものであるために、有史以来リアルな表現は避けられ比喩が用いられるのが常だった。

 

クンダリーニについて、仏教哲学者の中村元が面白いことを書いている。

『また、クンダリニーは最高の性力(parasakti) と考えられ、「真の性交(maithuna) とは最高の性力がアートマンと合することである。他の合一はただ女人との肉欲的な結合にすぎない」(Kularnava tantra,V, tantra, V, 111ー112)と考えられた。

その結合は、ときにはシヴァ(Siva)とクンダリニーとの合一とも考えられた。』

(中村元選集第二十四巻ヨーガとサーンキャの思想P319から引用)

 

※性力:神秘的エネルギー、フォース。シャクティ・パットのシャクティ。微細身レベルであるとすれば、エーテル体レベルなのか、アストラル体レベルなのか、メンタル体レベルなのか、それを越えるレベルなのかという疑問は当然に出る。だが、ニルヴァーナのプロセスとテクニックでは最終的にそれを超えるものであると洞察されるのではないか。

 

中村元もクンダリーニがアートマンと合一することを究極と見る説があることを紹介しており、これが一つのインド伝統の見方であることを示し、おおまかにはダンテス・ダイジ説はこうした流れの中にあって独自説ではないと思われる。

 

クンダリーニがブラフマンと合一することが人間にとっての大悟覚醒であることを万人に証明するには、万人がクンダリーニがブラフマンと合一する体験を持たねばならない。

それは現代科学のように感覚刺激至上、微細身がないこととされている立場では、評価することはおろか証明する手段はないということである。証明される時期は、すべての人が神仏を知る時代を待たねばならないと思う。

クンダリーニ・ヨーギ本山博が微細身の存在を証明すべく物理実験を繰り返したが、やっている本人はどう思っていたのだろうかと思う。

そこで、このことをオシャレに冷暖自知すとか、自証するとかという表現にひっくり返したりするが、証明困難という実態には変わりはない。

 

それでも今日も冥想を。

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冥想の効用と二種類の死

2024-05-11 03:09:47 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-2

◎アートマン-2

◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-1

◎冥想の効用のない部分-1

◎概説

 

冥想の効用のある部分については、損得と便利優先マインドの大勢の現代人に向かって、あまり一生懸命説明する必要はないと思う。冥想の効用のある部分とは、現世利益、願望成就であって、わかりやすいからである。

 

だから現代人にとって、本丸は冥想の効用のない部分である。冥想の効用のない部分とは宗派によって、なにもかもなし、非実在、非実存、非在、ニルヴァーナ、エンソフ(アインソフ)、無、第七身体、天御中主神、大日如来などといろいろな呼び名がある。言葉で表現できない沈黙という表現の仕方もある。

 人間にとっていわゆる神とは、宇宙全体、世界全体であるところのものも神でもあるが、正統な宗教では、その宇宙全体、世界全体が更に死ぬのが、この第七身体であることも示す。

 これによって、世界全体宇宙全体の転々化々する現象は、相対的な位置であるかのように理解される。だが永遠不壊は、第六身体の属性でもあり、第七身体をなにもかもなしと見れば、人間にとって、この世はドリームでもあり、リアルでもあり、となる。

 一個人の冥想修行カリキュラムとしてみれば、カリキュラムの中には、大きく見て二つの死が存在する。最初の死は、自分個人が死んで、自分の知り合いも、自分の生きる宇宙も死んで、宇宙全体、世界全体として再生するところの死。

 そして二つ目の死は、その宇宙全体、世界全体が死に、ニルヴァーナ、モクシャとなること。冥想の効用のない部分とはまさにこの部分のこと。

 

ところが功利的な人は、宇宙全体、世界全体が未来永劫滅びることがないのであれば、最終段階である第七レベルのニルヴァーナまで進む必要はないのではないかと思う。

 だが理由はわからないが、正統宗教では、第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナは常にペアで存在する。その二つの関係性は、OSHOバグワンとダンテス・ダイジだけがかすかに説明している。

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アートマン、本来の自己、真我

2024-05-10 03:28:20 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-1

◎アートマン-1

◎空、本来の自分、聖杯、月、鏡、不死、不壊、永遠

 

第六身体をアートマンと言っているのは、クンダリーニ・ヨーガ系。アートマンを真我と訳しているものもあるが、空、本来の自己、聖杯、月、鏡、不死、不壊、永遠などとも表現されている。また、これは個人の心理的状態でもなく、精神的ステータスでもなく、思想でもなく、哲学でもなく、世界のすべてのすべてであり、過去現在未来を含むあらゆる時間と空間を含むもの。

人間にとって、個別性があるのは、コーザル体までであり、第六身体とされるアートマンは既に人間の側のものではない。現象全体をまとめたすべて一つながりの一なるもの、その呼称が、アートマンである。だから身体という呼称そのものが、そぐわないのである。

またコーザル体の先に位置するのがアートマン、「有」である。

アートマンとは本来の自分であり、本来の自己であり、本尊であり、聖杯であり、月であり、月輪であり、鏡である。そして、不死であり、永遠であり、腐敗しない、不壊であり、滅想定である。

アートマンとは古代インド思想の呼称だが、アートマンからは、つまりアートマンとニルヴァーナは、呼び名こそ異なるが、あらゆる宗教の本質は等しく共通であることの証拠の一つとなる。つまりアートマンは、物質と精神、時間や空間を含めた現象の側の全体としての呼称であり、シンボルとしては女性や太母や大地や牛や猪などが当てられる。一方ニルヴァーナは現象全体を越えた言葉では言い表せないもののことである。

 

中心太陽、ブラフマン、なにもかもなし、ニルヴァーナ。その対極がアートマンである。

人間は、悟りを求めて苦闘するのだが、アートマンなしでは人間ドラマは起こらず。アートマンだけでも人間ドラマは始まらない。

そしてアートマンとニルヴァーナはペアという風でもない。その関係は、極めて微妙な位置づけであることを示唆する書き方で、文献には現れてくる。

このように各宗教に共通のものがあるという見方は、最近の発見などではなく、古代インドから知られていて、冥想に深浅高低を意識する宗教であれば、必ずアートマンに相当するものが登場してくるものである。これにより、万教同根とか、宗派なき冥想ということが当然のごとく主張されていく。

アートマンは個人あるいは人間に属する事柄ではないが、人間は、悟った後でも、なぜ金を稼いだり、洗濯したり、家事をしたりしなければならないのか。結局人間は、アートマンという、いわばこの世での欲望の原因を宿して生きているからであるということ。アートマンは欲望の塊りなどではないが、肉体とプラーナと想念を突き動かして生きている本体は、せんじ詰めればアートマンである。

 

そしてクンダリーニ上昇プロセスにおいて、中心太陽に突入するのは、なぜか個なる人間ではなくて、アートマンなのである。

 

アートマン以上は神・全体であり、コーザル体以下は人間なのだが、このアンバランスを調整するのが冥想である。禅の十牛図では、アートマンたる牛を見るのが見牛第三であり、これも悟りの一つ。

プラトンのイデア説では、イデアである永遠不壊の善・美・正の元型が存在するところがイデア界。このイデア界がアートマン(真我、本来の自己)だが、アートマンとは、現象のすべてのすべてを含み、時間(過去現在未来)、空間、物質のすべてがひとつながりになっている一気通貫。

そこでは、時間は今ここしかないが、現象というのは常に様々に変動しているにもかかわらず、永遠で変わることがないということは全く矛盾していて、我ら凡人の生活感覚では理解できないものだ。

 

これを解くカギが、ダンテス・ダイジの冥想道手帳にあった。

『[神界]

 

絶対それ自身、完全それ自身。

愛・智慧・力・自由それ自身。

宇宙意識・ニルヴァーナそれ自身。

 

神界以外に宇宙はない。現象界とか霊界とかは、神界の表現形式にすぎない。

あらゆる生命達が求めて止まぬそのものであるとともに、あらゆる生命達の本来の姿。

冥想が冥想を冥想していること。

 

もし冥想道に目的があるとすれば、神界とふれ合い・神界と一つになり、もともと神界であった自分に気づくことただそれのみだ。

 

そしてまた神界のここに

君という神と僕という神とが法楽するドラマが終わったところに

神のドラマが始まる。』

(冥想道手帳 MEDITATION WAY MEMOダンティス・ダイジから引用)

 

神界とはアートマンとニルヴァーナのことである。アートマンの展開したものが現象界とか霊界とかである。だから神界とは天国という意味ではない。

 

『ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ』P101-102の挿絵は、アートマンがブラフマンに突入するシーン。

この挿絵では何か巨大宇宙卵みたいなすべてのすべてであるアートマン『有』が、わけのわからない中心太陽ブラフマンに突入するというように具象が具象に衝突する風ではない。

なぜなら突入直前シーンの説明は、『すべてのすべてが私自身であることに目覚める』(上掲書P102から引用)となっているからである。

おまけに突入直前シーンは、サビカルパ・サマディであるが、『神と自己との間に差別感がかすかに残っている状態』(上掲書P108から引用)であって、突入後は、ニルビカルパ・サマディーであり、それは『自己と神とが完全に同一であることに目覚めることである。』(上掲書P108から引用)とあるからである。

 

すなわち、目覚めること、気づくことがポイントになっている。

 

つまり、アートマンとは、『すべてのすべてが私自身である』で、ブラフマン(ニルヴァーナ)とは、『自己と神とが完全に同一であること』であるのだが、力点は、そのことそのものにあるのではなく、それに目覚めること、気づくことの方にある。だから大逆転にして、倒立なのだ。

ここは、七つの身体論では注意すべき点である。

 

そのことを前提にすれば、『神界のここに

君という神と僕という神とが法楽する』ことができる。

なんとなれば、この理不尽と汚辱と苦悩と困難に満ちた現象界とか霊界とかは、神界の表現形式にすぎないからである。神界以外に宇宙はないからである。

 

※OSHOバグワンは、アートマンを個の方に分類しているが、もっともなことである。だからといって、『すべてのすべてが私自身であることに目覚め』たアートマンを個に分類してよいのだろうか?

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ニルヴァーナからの生還

2024-05-09 03:42:04 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-37

◎垂直上昇への仕掛け-37

◎そこからの帰還-1

◎君は、初めて、真に生きる

 

ニルヴァーナからの生還の仔細について語った人はほとんどいない。ニルヴァーナからの生還の確率は低いが、生還したと思われる人には、次のような人がいる。

釈迦、達磨、役行者、空海、荘子、呂洞賓覚鑁パドマサンバヴァ、一休、出口王仁三郎、臨済、普化、道元、至道無難、OSHOバグワン、ダンテス・ダイジ等々。

 

『一度(ひとたび)は霊肉脱離の境越えて 夜なき国に住む人の身よ。』

(出口王仁三郎)

 

『本当に肉体から離脱したことがあるなら、君は、初めて、真に生きる。』

(ダンテス・ダイジ))

 

『大道の極意を
ことごとく 死人となりて なりはてて おもひのままに するわざぞよき』

(江戸時代の禅僧至道無難)

 

『神々のすまいする山に登る人間はいない。神々の顔を見た者は必ず死ぬ』

(ギルガメシュ叙事詩第5章)

大死一番して神に出会うということ。似たような表現が聖書にある。生還のことは気にしていない風である。

主がモーセに語る。

『しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人はないからである。』

(旧約聖書出エジプト記33-20)

 

『生を出て死に入るとは無より有にゆき、有より無にゆき、そして衰賤す。この故に清静は徳の至りにして、柔弱は道の要なり』(淮南子の原道訓)

さらに

『万物のすべては一孔に入り、百事の根は皆一門より出る』

(淮南子の原道訓)

これは、体験とは言えない体験を経て生還した者しか言えない言葉。一孔は、無上の垂直道、根とはサハスラーラ・チャクラか。

 

禅の公案集の碧巌録第四十一則【投子投明】から、

『禅僧趙州が知合いの禅僧投子に質問した。

「大死一番した人が、生き返った時はどうですか」

投子「夜行は許されぬが、明け方には到着しなければならない」』

 

不許夜行とは、唐代の夜間外出禁止令にかける。夜行とは死んだままであり、大死において大歓喜、大慈悲の真っ只中にあり、筆舌に尽くせぬ状況に放り込まれて、普通の人はそのまま9割は死んでしまうそうだ。これが夜行。

 

意識を清明に持ってそこから帰還する。これが明け方に到着する。十牛図でいえば、第八図から第九図、第十図と進む。帰還への意志が起こるのは、その人の持つ人間愛からなのだろう。生の側から極めるとはそういうこと。

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モクシャ{実在、意識、至福}

2024-05-08 03:14:40 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-36

◎垂直上昇への仕掛け-36

◎モクシャ-1

◎独存、無我、自由

 

モクシャとは、ニルヴァーナのこと。OSHOバグワンの説明によると、ジャイナ教では、「カイヴァリア:独りあること」、仏教では、「ニルヴァーナ:無我」、ヒンドゥー教では「モクシャ:自由」と呼び名が異なるだけということだそうだ。

クンダリニーがニルヴァーナに覚醒するプロセスと謳いながら、どうしてクライマックスが、ニルヴァーナではなくモクシャ{実在、意識、至福}なのか怪訝に思う人もいると思う。冥想十字マップで言えば、ニルヴァーナであって、無相三昧(ニルビカルパ・サマーディ)。

モクシャは、禅の十牛図で言えば、第八図の一円相

 

モクシャとは、何かと言えば、言葉では表現できない。それが作法になっている。

 

参考までに、ゲーランダー・サンヒターから

『こころを肉体から分離して、それを至上我へ合一させる。これがサマーディなりと知るべし。これはダシャー等からの解脱と名付けられている。』

(続ヨーガ根本経典/佐保田鶴治/平河出版社p131から引用。ダシャーの意味は不明だそうです。)

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大物主神、レディの秘所を突く-3

2024-05-07 07:19:39 | 古神道の手振りneo

◎古事記の天国と地獄の結婚-4

(2019-09-17)

 

さてこのように大物主神と人間の娘との間に生まれた娘の名は富登多々良伊須々岐比売命(ホトタタライススギヒメノミコト)。

 

出口王仁三郎の説明では、

この名の言霊は真空之全体である。日本の名は実の極みであって、名は実体を指し示す記号に過ぎないなどということはない。

日本人の声は有機物であって、外国人の声は無機物であって記号、シンボルに過ぎないと、日本語の発声の優秀性を主張する。

 

 以下出口王仁三郎の言霊説明。

『ホは太陽の明也、上に顕る也。

 トは十也、治る也。

 タは常に治り静る也。

 タは身を顕し居る也。

 ラは極乎として間断無き也。

 イは治而無為也。

 スは集中也、真中真心也。

 スは垣無く無為也。

 ギは天津御祖の真也。

 ヒは大慈大悲の極也。

 メは地球を含む物の天と云ふ也。

 ミは産霊の形を顕す也。

 コは極微点也。

 トは一切を能く結び定め治むる也。』

(出口王仁三郎全集 第5巻【言霊解】皇典と現代〔一〕神武天皇御東征之段から引用)

 

上のホトタタライススギヒメノミコトの十五言霊の意義を了解すれば、直霊の御霊の光り、太陽の如くに明かに照り渡り、雲の上に伊都能売と顕はれて、五六七の神の御代の現象は、実にホトタタライススギヒメノミコトと現はれるのだ、とする。

つまり、富登多々良伊須々岐比売命(ホトタタライススギヒメノミコト)とは、天国と地獄の結婚である伊都能売にして、宇宙全体=アートマンのことで、ここに神と人との結合の結果の神の子が万人である、七福神の時代の実現を見る。

 

※真空之全体について

以下の1~3より、真空之全体とは、第六身体アートマンを指すものと考えられる。

 

1.真空とは以下の文では青空のこと。

『次にオ声の言霊活用を略解すれば、

オ声は北に活用きて受け納め、

(中略)

総じて極乎たる真空即ち現見の蒼天を現じ』

(霊界物語 第74巻総説から引用)

 

2.以下の文では、真空の全体たる霊魂球=アートマン

『真空の全体たる霊魂球』(霊界物語 第10巻27章 言霊解一から引用)

 

3.以下の文では、至大霊魂球とは、至大天球、つまり世界全体、宇宙全体。

『されば最第一なる霊魂精神は、至大天球一名は至大霊魂球にして、一個人の神経は此の霊魂球中の一条脉なる即ち玉の緒と言ふ物也と明言して、その明細を説明する事不能也也。』

(霊界物語 第81巻 総説 天地開闢の極元から引用)

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救いの一直線の光り輝くエネルギー

2024-05-07 03:58:30 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-35

◎垂直上昇への仕掛け-35

◎無上の垂直道-1

◎クンダリニーとは、ニルヴァーナがマーヤーを仮現せしめるための・・・

 

チベット死者の書から、

『しかし生前にガイドとよばれる実際的な教えを受けてきたすべての人々は、この導きが適用されると原初のクリヤー・ライトへと導かれるだろう。そしていかなる中間状態をも通ることなく、無上の垂直道を通ってダルマ・カーヤを得るだろう。』(チベット死者の書/おおえまさのり訳/講談社P24-25から引用)

※原初のクリヤー・ライト:原初の光、母の光明

※ダルマ・カーヤ:法身

※無上の垂直道についてこの本の注釈はついているが、何のことかわからない。

 

これに触発されて、ダンテス・ダイジが、パドマサンバヴァの言う無上の垂直道とは、メンタル体→コーザル体→アートマンと変化した自分個人が中心太陽(ブラフマン)に突入する直前の垂直道であることを示唆している。

無上の垂直道とは、自分最後の個別性が消える寸前のホーム・ストレートなのだ。

 

『尚、ニルヴァーナへの無上の垂直道を上昇する場合には、純粋意識と、「神」から発出されたエネルギー・コードとは同一のものであることを知覚することになる。』

(ダンテス・ダイジの『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』P109から引用)

 

中心太陽突入後に曰く、

『クンダリニーとは、ニルヴァーナがマーヤーを仮現せしめるための一直線の光り輝くエネルギーのことなのだ。』(上掲書P72から引用)

※マーヤー:無明、迷い

 

つまり日本でも古来玉の緒と呼ばれたクンダリニーのエネルギー・コードは、単にアストラル体の魂と肉体を結ぶだけの霊線ということでなく、七つの次元を自分個人が上昇していく最終盤では、最後の自分自身の個別性ということになる。

 

最後の自分自身の個別性が中心太陽に突入することで、自分は全知全能にしてすべてのすべてである神仏となって、大逆転、倒立が発生する。これが窮極の救いということになる。

 

道教では、柳華陽の言う妙道が、この絶対光に向かう道、すなわち無上の垂直道なのではないか。慧命経の第六図化身図では、この陽神が妙道を通って虚無と化していくとあり、無上の垂直道ならぬ「妙道」を通って中心太陽に向かうことを言っているのだろう。

有より出て無に入るとは、文字通りアートマンからニルヴァーナへ。

 

また苦難と絶望からの救いということなら、旧約聖書にノアの箱舟があり、古事記に目無堅間の舟がある。乗った者を必ず救ってくれる。この救いの船とは、意外なことにクンダリニーのエネルギー・コードであったと思う。

 

古神道出口王仁三郎の霊界物語(霊界物語第五巻 第23章 神の御綱)では、危難や大峠、大洪水、世の終わりでの救いに、鉤つきの長い霊線を多数登場させて、助かるべき人を次々と天の浮橋に引き上げて救っていく。

この長い霊線(別名:神の御綱(かみのみつな))は、身魂のレベルに応じて金の霊線、銀の霊線、銅の霊線に分かれている。

この救いの霊線こそがクンダリニーのエネルギー・コード。

救いが確定するのは、中心太陽突入直前であろうから、映画でよく見るような巨大な救いの船に「人間が選んだ」民だけが乗り込んで助かるというようなものではないように思う。

なんとなれば、霊界物語によれば、救いの霊線があることは、世界的に誰にでも知られるようになるが、最初は眉唾として怪しむばかりの人ばかりで、本気で救われようとする人はいない。が、やがて少数ながら実際に救われる人が出て来て、次第にその数が増えていく。つまり自分で能動的に救いの霊線に依って(冥想修行して)助かりに行かねばならないからである。人間が救うのではなく、神が救うのである。

 

クンダリニーのエネルギー・コードは、最初は白で上昇するにつれ、銀、金と色を変えていく。出口王仁三郎もその消息を目撃したことがあるのだろう。

 

無上の垂直道と言えば、厳(いか)めしいが、万人にとって窮極の救いとは、わが身の霊線、玉の緒のことだったのだ。

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ニルヴァーナ覚醒プロセス

2024-05-06 03:37:37 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-34

◎垂直上昇への仕掛け-34

◎成道の瞬間のスローモーション解析-2

◎モクシャ(実在、意識、至福)から肉体への帰還まで

 

そもそもクンダリニーのエネルギー・コードがブラフマンに突入することが、ニルヴァーナの覚醒である、とまで示したのは、ダンテス・ダイジが空前絶後であって、内丹の柳華陽や古神道の出口王仁三郎はここまで書いていない。

そこでダンテス・ダイジの『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』のP93から105までクンダリニー覚醒のプロセスの「2.具体的プロセス」の見出しのみ引用する。詳しくはご自分で当該書を確認されたい。イラストもついています。

 

『1.一般的に1~3人の神霊がやってくる。

 

2.3人のいずれか1人が本人の頭に手をふれる(導師がアストラル体かメンタル体で空中から、本人の封印を切る。)

 

3.サハスラーラ(頭頂)が盛り上がると同時に肉体は機能停止を起こす(盛り上がり確定)。

 

4.ヨニ・ムドラーを始める。肉体感覚は消えてゆく。(意識だけでヨニ・ムドラーをやっていることになる)

 

5.サハスラーラとクンダリニーだけが光っている。

 

6.クンダリニーの覚醒

 

7.クンダリニーの各チャクラへの上昇

 

8.絶対性をもつアートマの光の輪が自分自身であったことに目覚める。

 

9.コーザル体の離脱

 

10.アートマンの上昇

 

11.ブラフマンとアートマンの合一

 

12.回帰の直前

 

13.モクシャ(実在、意識、至福)

 

14.肉体への帰還』

 

上掲見出しについて、いくつかコメントしてみたい。

 

まず、生の部分は、1~3、14であって、死の部分は、4~13。よって4のヨニ・ムドラーが死の世界の入り口になっている。

 

3のサハスラーラの盛り上がりについては、本文でのパドマ・アサナ(蓮華座)の段階か。また1~3では肉体は生存中。

 

一方4~13は死の世界だが、肉体死に伴う諸問題を回避するためかどうかはわからないが、生還のためには、極くごく短時間に発生するものらしい。

ただし、チベット死者の書では、肉体死直後に原初の光(母の光明)を見る時間があるが、これは見る時間が長ければ長いほどよいなどと書いている場合があるが、それは、肉体死直後に生還を期さない場合のことなのだろうと思う。

 

『5.サハスラーラとクンダリニーだけが光っている。』で、下から無感覚になっていくのは、ソクラテスが毒杯をあおった進行と同じ。

 

『6.クンダリニーの覚醒』で、本文に「突如何もかもが崩壊した」とあるが、それが、肉体からの離脱のスタートである模様。

私の肉体も、私の心も私の世界も死んだ、と本文には書いてあるが、これが起きたのは、ここか?

 

『7.クンダリニーの各チャクラへの上昇』の説明で、「プラナ入息とともにコードがはずれていく」とあるが、このコードとはクンダリニーのエネルギー・コードだろう。

挿絵では既にムラダーラ、スワジスターナからコードが外れた状態になっている。

 

『8.絶対性をもつアートマの光の輪が自分自身であったことに目覚める。』

ここまでの部分が宗派や瞑想手法によって違いがある部分なのではないか。以下の段階は各宗派共通の部分ではないかと思われる。

 

『9.コーザル体の離脱』

メンタル体で肉体を出よと言い慣わしているわりには、頭頂外にメンタル体が出て、体外への上昇はコーザル体であって、地球、銀河系と上昇を続ける。

 

『10.アートマンの上昇』

メンタル体意識は消滅し、コーザル体に切り替わって上昇を続け、アストラル界、メンタル界と上昇する。

 

『11.ブラフマンとアートマンの合一』

ここでは、コーザル体が上昇するにつれ、絶対光(ブラフマン、中心太陽)に近づいていくが、その際コーザル体がアートマンであったことに目覚める由。

これは、わかりにくいし、ヴェーダやヨーガ・スートラでは全く説明していない部分。

 

『12.回帰の直前』において「すべてのすべてが私自身であることに目覚める」という。この段階で、すべてのすべてである神が、私自身になった。これが大逆転であり、倒立である。ただしこれは「有」の世界。

 

『13.モクシャ(実在、意識、至福)』

言語では解説していない。

 

『14.肉体への帰還』

エネルギーに満ちた光のシャワーが肉体に注がれ、曰く中心太陽のエネルギーが肉体内の全チャクラを調整、復活させるという。

これにより、肉体死によって起こる肉体の側の諸問題は解決されるのだろうか。

 

以上でコメントを終わる。


これら一連のプロセスは、次のような理由で全体で数秒程度しかかからないのではないかと推理している。
1. 臨死からの生還では、全身虚血と再灌流症候群が問題なので、臨死状態は短時間であることが望ましい。
2. ニルヴァーナではないが、某人がさる異世界を往還するという体験をした直後、ダンテス・ダイジが、某人に激しいダンスをするよう命じたことがある。その往復時間をダンテス・ダイジは数秒と述べている。
3. ムハンマドの夜の旅で、預言者ムハンマドはある日、自宅から天に昇り、神に出会い、帰還した。その所要時間は、「倒した水差しの水は流れ続けていた」とのことなので、数秒と思われること。

以上によりこの一節の見出しが、「成道の瞬間のスローモーション解析」となっている

また、これら一連のプロセスは、史上初めてダンテス・ダイジが発見したオリジナルなものではなく、古代から存在したタントリズムあるいは密教系の伝統の技法であって、ここまで開示を許されてこなかったもの。
例えばパタンジャリのヨーガ・スートラには、
『3.43 「大脱身」とは粗雑な肉体を離れ、想像を超えたところで機能する技法である。 大脱身を遂行することで、輝きを覆っていたものは壊される。』
(現代人のためのヨーガ・スートラ/グレゴール・メーレ/Pxivから引用)
とあり、漠然ではあるが、この脱身のプロセスが表現されている。

またクンダリニーは軍荼利に、絶対光(中心太陽)は大日如来に漢訳されていることで,この技法は、チベット密教、中国密教、日本密教に継承されているのだろうと思う。

なお、密教系カルトというものは、呪術・祈祷・霊能力・霊能力に近いが故に歴史上何度も発生してきている(真言立川流など)。よって密教系カルトのネタ本というのは、密教経典全般ということになるが、そういう言い方は真摯な密教者にとって不本意なことである。

閑話休題、『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』の特筆ポイントは、「呪術・祈祷・霊能力・霊能力などを私に都合よく利用しよう」という世俗部分の可能性を残していることでなく、「人間が神仏へと逆転するプロセスとテクニック」を明らかにしたところである。
そしてまた、「人間が神仏へと逆転するプロセスとテクニック」こそは、21世紀に冒険者が目指すにふさわしい未踏の秘境であり、かつまた真摯な科学者が研究を尽くすべき未知の深奥である。

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田中陽希GreatTraverse-7

2024-05-05 12:40:45 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎利尻水道死の彷徨

(2021-06-04)

 

グレートトラバース百名山一筆書き踏破は、既に99座を踏破。田中陽希の軽口が前途の困難を予感させる。

 

2014年10月23日午前8:20田中陽希は、シーカヤックで、利尻島の対岸の豊富町稚咲内(わかさかない)港を出発。直線距離25キロの海を6時間で渡る計画だった。つまり午後2:20には到着予定だった。

 

ところがあいにく利尻水道には風速10mの南風が吹き荒れ、海は時化ており、風に弱いカヤックには悪条件だったが、この後五日間は更に風が強くなり、百座目の利尻富士も雪に覆われることが確実となることから、敢えて出航を決断したのだった。

 

最初の3時間は順調で、ほぼ12kmを進んだ。だが波高3mの海は更に時化て、風速20mにも達し、体力的にも限界。到着予定時刻を過ぎた午後4時には、カヤックが転覆。

 

田中陽希はカヤックから投げ出され、再度カヤックに乗り込もうとするが、波浪のためなかなかうまく行かない。海中で7分経過し、これ以上カヤックに戻れないと低体温で死の危険があると思われた矢先、何とか船に戻り、漕艇を再開した。

 

この時、偶然にも風が弱くなり、スピードが上げられたのは僥倖だった。午後5時半カヤックは到着予定港より10キロ北に流され、利尻島雄忠志内(おちゅうしない)漁港に到着。

 

カヤックを陸揚げする田中陽希の手はかじかんでおり、手足は凍えて身体はふらついていた。そして生死の境をどうにか生の側に転げたことで、彼は人目もはばからず涕泣し、無言。生きていてよかったとつぶやくこともできないほどのショック状態。(字幕ではしゃべったことになっていたが)

 

振り返ると、津軽海峡も利尻水道と同様の潮の流れが速い海路のカヤック航海だったのだが、そこが順調すぎたのかもしれない。

 

伴走船がついていたけれど、NHKも鬼の冷徹さで救助しない。こういうのを番組にしてよいのか。幼児も思春期も見るのだ。だが、これぞアドヴェンチャー。シナリオもので生死を賭けさせることはできない。

 

Meditationの道も最後は生死を超えるのだから、まあ同じで、最終段階の直前に神仏の加護が見えると言うというのは、似たり寄ったりか、などと思い直す。

 

稲生平太郎もイエスも釈迦も最終段階の直前に魔王が登場し、それをクリアしないと成道できない。北欧神話のオーディンの箴言にも最後にクリアするまで油断してはならないというニュアンスのことわざがある『夕方になってから昼を誉めるべきだ。(死んで)焼かれてから女を、ためしてから剣を、嫁にやってから娘を、渡ってから氷を、飲んでしまってから麦酒をほめるべきだ。』。

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田中陽希GreatTraverse-6

2024-05-05 12:24:50 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎インテリジェンスの場、高山と海

(2021-05-30)

 

高山の登山には、聖と俗の二つの面がある。

聖の側は、冥想修行であって、人跡稀な高山を以って修行の場とするケース。俗の側は、インテリジェンスすなわちスパイの通信伝達場所として高山を用いるケースである。

 

まず俗のケース。

アストラル・トリップで人と出会える猛者ならいざ知らず肉体でもって高山で文書を通信しようとするならば、まず装備が問題となる。

 

8千メートル峰14座を無酸素で最初に登頂したラインホルト・メスナーも、凍傷で指を失わない、低体温にならないための装備を重視している。

 

要するに体温を上げる特殊な訓練をしなくとも、装備でもって登山することを狙っているわけだ。山には冬山の厳寒あり、4千メートル級になると、高山病がある。

 

インテリジェンスとは、人に知られない場所で重要情報を交換するのが基本。関所がないところで情報交換する。日本でも山岳修験は、役行者の昔からあり、山岳に神代文字の碑や神文が残っているところを見ると、各時代の為政者の目を逃れ、山岳修験者として情報通信や秘密交渉していたのは、古代からあったのだろうと思う。

ところが、その形態の情報通信では情報量が少ないものであるから、いざ戦争になる局面では、軍師の脇にシャーマンが鎮座し、シャーマンの受信した情報でもって戦略を定めていた。日本古代の三韓征伐では、シャーマンである神功皇后が表に立ち、審神者兼軍師である武内宿禰が戦争指導をしていたが如くである。

欧州では、修験はないが、欧州アルプスを中心に登山家という人物が、ナチスの時代に至るまで山でインテリジェンスしていた形跡を推測できるものだ。

平地での戦争が終わると敗者サイドではその地から離れて隠れ里ができる。日本では平家の落人が売りの温泉地があったりするが、それは水軍主体であった平家ではなく、実は源氏なのだという説もある。

田中陽希GreatTraverseでは、結構一般的でない登攀ルートを辿る。昔の修験者、山岳専門の間者とは、実質獣道みたいな場所を通行していたのだろうとか、徳川家康の伊賀越え逃避行とか、坂本龍馬の脱藩ルートとか、難行苦行していたであろう山越えルートを田中陽希は軽々と進むのは、心地よい。

 

また田中陽希は津軽海峡を手漕ぎカヤックで4時間半で渡り切った。津軽海峡を渡るのがそれほど容易なら、古来もっと大勢の人数が北海道に渡っているはずだが、そうはなっていない。

 

日本武尊の当時、船と言えば、巨木をくり抜いた丸木船に毛の生えた程度のものだったらしい(古代の船についてはいろいろ読んでみた)。古事記では、日本武尊の東征において、相模から上総に浦賀水道を渡ろうとした際、突然暴風が起こって海が荒れ進退窮まる。そこで、なんと后の弟橘媛(オトタチバナヒメ)が日本武尊に替わって海に入り生贄となると暴風が収まった。この水路が横須賀市走水。これはインテリジェンスが効かなかった例。

 

こうした秘密情報も重要だが、インテリジェンスの8割は公開情報と言われる。

冥想修行者は、人が見ていないところでも、人が見ているところでも善を行い、悪を行わないもの。諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)が基本。

あらゆる公開情報がマインド・コントロールとなる時代。すべてを感じ取っていくことができるほどに人間は進歩したのではないだろうか。

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