アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

田中陽希GreatTraverse-5

2024-05-05 12:20:17 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎日本の水平における神秘を極め尽くす

(2021-05-29)

 

田中陽希の、急登を常人の倍以上のスピードで進む能力も一種の超能力のようなもの。20代で大峯千日回峰行(一日で48キロの山道の往復を繰り返す)を満行した塩沼亮潤大阿闍梨も50代になって、それを振り返り「人間のやることではない。」などと評していたが、そのスピードだけでなく、無事故で進めることも一つの奇跡である。

奥山の道を進めば、風雨あり、熊、猪、鹿、猿、蛇あり、意識のゆらぎでの霊異あり、ロードでは自動車の危険がある。田中陽希GreatTraverseでは、この辺は風雨雪程度しか画面には登場しないが、磐梯朝日国立公園朝日岳では、登山道に熊の糞が点々と落ちており、熊道であることを示していた。

田中陽希が、足元が不安定になる濡れた木の根、細かいガレ(大小さまざまな岩や石がゴロゴロ散乱しているもの)場を進むには、一歩一歩これを踏んだら次にどうなるかを瞬時に予測して進むと語っていたが、特に下りでは、それが重要。だがそれは、誰でもできる技ではない。

 

また四囲をガスに覆われて視界が効かなくなると、人の心理は内側に下降していくもの。このようなシーンは、TV的には何も面白くないので、すべてカットされているが、冥想ヲタク的には、この辺に関心がある。一般にこのタイミングで狐狸が登場し化かされるものである。狐狸は、見かけは人として現れるもの。

そういう画面に出てこないいろいろな障害を承知している人なら、彼のツアーの偉大さを一層わきまえているのだろう。

そして百名山ツアーを成功させる、田中陽希の過去のカルマの集大成も無視はできない。

 

百名山、三百名山を登り切るということは、シンボリックには、日本の水平における神秘を極め尽くすということであり、そういうことが起きたということは、次には垂直に進むしかないということでもある。

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田中陽希GreatTraverse-4

2024-05-05 12:17:24 | 冥想アヴァンギャルドneo

◎登ってはいけない山-2

(2021-05-28)

 

さらに大江山。

『古事記』崇神天皇の段では、崇神天皇の弟である日子坐(ひこいます)王は天皇の命によって旦波国(丹波国)に遣わされ、土蜘蛛の玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を討った。

また用明天皇の時代に、聖徳太子の弟の麻呂子(まろこ)親王の鬼退治伝説がある。

また一条天皇の時代、長徳元年(995年)に源頼光と藤原保昌らが大江山に住む鬼(酒呑童子)を征伐したという伝説もある。

 

出口王仁三郎は、

『大江山は日本の悪霊の集まつて居る所である。山の中腹を邪気線(死線)が六十間位の幅で取り巻いて居る。されば此山に登る事は危険な事である。大抵の人間がこの邪気に犯されると思想まで悪化して了ふのである。元伊勢の内宮から、外宮にかけて霊線が通つて居る、この霊線は良い線で、これを突破して大江山に登つた大本信者は悪霊の教唆によつて、遂に信仰から離れて行くものが多い。』(水鏡/大江山と邪気線/出口王仁三郎から引用)

 

※大江山の東南東に10キロほどの山道を行くと元伊勢内宮がある。外宮(豊受大神社)は内宮から4キロほど南であり、この間に良い線があるわけだ。この元伊勢に行った人でないとこの文はわからないのではないか。

 

ところが、どんなパワースポットでも、白でも黒でもない大勢の人が繰り返し登れば、その霊線は弱まるということはあるのではないか。よって次のような歌が出てくる。

 

『大江山鬼の住家は八衢(やちまた)の都大路に宿をかへたる』(出口王仁三郎全集第7巻歌集 巻下 道歌より引用)

 

そういう訳で、今この時代に、現世に地獄が移っていることの悲しさよ。

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何のためにニルヴァーナに向かおうとするのか

2024-05-05 03:11:42 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-33

◎垂直上昇への仕掛け-33

◎成道の瞬間のスローモーション解析-1

◎人間には結局苦悩と絶望からの救いはないから・・・

 

人は暫時の死のためにクンダリーニ・ヨーガを極めようとするわけではない。本当の幸福を求めているだけのこと。

だが、人間には結局苦悩と絶望からの救いはないから人間を越えたものに向かう。

それを骨身に染みてわきまえているものだけがこの道に進んでくる。

 

ニルヴァーナの覚醒を成功と見れば、このトライアルは分の悪い戦いかもしれない。

何よりも二重の不確実性がある。

そして生還の確立も高いとは言えない。

そして人はそれぞれに人生の目的を抱えて生まれてきている。未達成に終われば、犬死と評価されたり、来世があれば来世に持ち越すなどと自己欺瞞なことを思ったりする。

それでも人は今生の最後の息一息まで、生きていさえすれば何か生きる意味があるのだ。

その一息の絶える時まで、正直に真剣に取り組もうとする姿勢があれば、そのようにニルヴァーナに向かう人をそしることはできない。

だからこそ、その困難さゆえに、クンダリーニ・ヨーガの成功者である釈迦は、冥想修行者達から英雄であると認められるのだ。

 

なおエヴェレストでは、ヒラリーとテンジン初登頂以前には何人も死に、初登頂後も人は今でも登り続けるが、時々死人を出す。また生命を求めて成功確率の低い手術に向かう人も絶えないものだ。

 

さてクンダリーニ・ヨーガでは、上昇。一方只管打坐では、身心脱落であって、下降。

方向性は表面上逆方向だが、ここに述べるようなクンダリーニのエネルギーコードが全チャクラから分離して、肉体外に出て七つの次元を上昇するプロセスは、只管打坐では急速に起こるので自分でも気づかれにくいというのがダンテス・ダイジの示唆である。

この点でもクンダリーニ・ヨーガの方が只管打坐より繊細、精密であることがうかがえる。

だからと言ってクンダリニーは、上昇することが眼目ではなく、以下の説明のように、クンダリニーのエネルギー・コードが最終的にニルヴァーナに覚醒することが眼目である。

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キリスト教の梯子

2024-05-04 18:25:35 | 【世界樹】【ザ・ジャンプ・アウト-01】neo

◎世界樹-12

◎キリスト教の梯子

(2013-08-29)

 

キリスト教の世界では、梯子を昇って天上に至るビジョンがしばしば語られる。梯子は世界樹のデフォルメの一つである。まず天上へのビジョンを見てみよう。

1.ローマ時代の22歳の女性殉教者ペルペトゥアは、闘技場で牛の角で突かれた後に剣で命を落としたのだが、彼女の最初の幻視は、人一人が通れるだけの巾の狭い青銅製のはしごが天まで達しており、梯子の下には巨大な龍がいたというもの。

2.「アイオーン/CGユング/人文書院P327」の挿絵によれば、ローマのカタコンベの中のバルビナ墓所の壁画には、梯子を登る人(僧?)の絵があり、梯子の下には蛇がいる。

3.創世記第28章12節で、ヤコブが天の梯子を見た。「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。 その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」

地上から梯子が伸びるのではなく、神の側から地に向かって梯子が伸びているというのが、いかにも自我未発達な時代の古代秘教的精神の特徴をうかがわせる。ヤコブは上から見ているのだ。

 

4.エドワード・メートランドの神の幻視『私は最初、一つの体系の周辺部から中心点に向かって長い梯子を昇っているような感じをもったが、その体系というのは、私自身の、太陽系の、そして同時に宇宙の体系でもあった。

 

この三つの体系は異なっていながらしかも同一であった。・・・・やがて私は最後の努力をふりしぼった。

 

・・・・・私は私の意識が放射する光線を、望みどおりの焦点に合わせることができた。その瞬間、突然点火によってすべての光が一つに融合したかのように、すばらしい、形容しがたい輝きを帯びた白い光が私の前に立った。』

(黄金の華の秘密/ユングとウィルヘルム/人文書院P61-62から引用)

 

メートランドは、この後で白い光の正体を見ようと試みた。

 

『その力は非常に強くて、私は突き倒されそうになった。・・・・・この光をこれ以上探求することは、無用であると感じはしたものの、私はもう一度たしかめてみることにした。

それはほとんど私を盲目にせんばかりだった輝きを貫き通して、その中に含まれているものを見たかったからである。

・・・大変な苦労の末、私はやっと成功した。私がそこにあるにちがいないと感じていたものが現れてきた。・・・・・それは御子[キリスト]の二重性であった。

・・・・隠れていたものが明らかになり、定義できないものが定義され、個別化できないものが、個別化されたのである。

主なる神はその二重性によって、神は実体であるとともに力[作用]であり、愛であるとともに意志であり、女性的であるとともに男性的であり、母とともに父であることを示していたのである。』

(上掲書P61から引用)

 

メートランドは、梯子の先にイエス・キリストを見た。キリスト教でいう空中携挙、つまり最近話題のアセンションの梯子の先には御子イエスがお待ちになっているわけである。

 

◎世界樹-12

◎キリスト教の梯子

【ザ・ジャンプ・アウト 018】

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ホセイン・マンスール・ハッラージ-3

2024-05-04 03:47:22 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-32

◎垂直上昇への仕掛け-32

◎大逆転と倒立-11

◎大聖者は、丁重に扱われるべき

 

ハッラージの、処刑台上での続き。

 

『それから、目がくり抜かれた。人びとからどよめきが起った。涙する者あり、石を投げつけるものあり。彼の舌を切り取ろうとすると、彼は、「少しだけ待ってほしい。一言いうことがあるのだ」と言った。

 

彼は天に向ってこう言ったのだった。

「神よ、この者たちが汝のために味わうこの苦しみに鑑み、彼らを不幸な身となさいませぬよう、また、この者たちに恵みを与えぬことなきよう。神に賛辞を、この者たちは、汝のために私の手足を切り取ったのでございます。私の首を彼らが切り落すなら、それは、汝の栄光を目の当りにする中でのことでございます」

そして、耳と鼻が切り落され、石が投げつけられた。』

(前掲書P359から引用)

 

イエスですら、ここまでひどい目には会わなかった。こんな目にあったのは、古代ローマの競技場でのペルペトゥアが有名である。

だが、イエスという大聖者を惨死せしめた反作用はユダヤ人のディアスポラに現れたと見れないこともない。大聖者は、洋の東西を問わず、丁重に扱われなければならない。

覚醒した人間の多くは法を説くことはないので、積極的に真理を説く覚者であればなおのこと貴重なものである。

 

イスラムの当時の人たちは、ハッラージをここまでの姿にしなければ気づかなかったのだろうか。

 

釈迦が、鞭の影を見て悟る人は上根であると言ったのは、誠にこのあたりの消息である。

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ホセイン・マンスール・ハッラージ-2

2024-05-03 03:41:50 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-31

◎垂直上昇への仕掛け-31

◎大逆転と倒立-10

◎真の人間は我が身の属性を一顧だにしない

 

ハッラージは、処刑台の上で、四肢を切り落とされつつ、冷静にいや何も感じていないかのように、わが身に起きていることを評価してみせる。

 

『それから手が切り落されたが、彼はにやりと笑った。「笑うとはどういうことだ」と言われて彼は言った。

「縛られた者の手を切り離すことは容易い。真の人間というのは、意志の王冠を玉座の先端から奪ってしまう、あの属性という代物の手を断ち切る者のことだ」

それから足が切り落とされた。彼は微笑をうかべて言った。

「この足では地上を旅したものだが、私にはこうしている今も二つの世界を旅する別のもう一本の足がある。できるものなら、その足を切ってみよ」

すると、彼は血まみれの両手で顔をこすり、顔と腕を血だらけにした。

「なぜ、そんなことをするのか」

「血が私の肉体からあふれ、私の顔色が蒼白であることが私にはわかる。あなた方が、私が恐怖のあまり青ざめたと思うのではと考え、顔に血をぬり、血色良く見えるようにしたのだ。

ほんとうの人間たる者の化粧の紅はその者の血だ」』

(前掲書P357-358から引用)

 

腕を切り落とされても、真の人間は我が身の属性には一顧だにしないのだと微笑してみせる。これは、例の禅の三祖の信心銘の好き嫌いのことを属性として表現している。こういうのを高度に人格を解放したとでも云うのだろうか。

 

足を切られて後のもう一本の足とは、微細身のことだろうが、もう一つの世界である永遠不壊なる今ここなる第六身体に到達するものでなければならない。

 

真人間の化粧とは、真紅の血によるとは、人と人との出会いの窮極形である愛は、血によらなければ成就しないということか。 

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ホセイン・マンスール・ハッラージ-1

2024-05-02 03:29:42 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-30

◎垂直上昇への仕掛け-30

◎大逆転と倒立-9

◎私には斬首台の上でしか語れぬ、あのお方との秘密がある

 

ホセイン・マンスール・ハッラージは、9世紀のスーフィの聖者。私は神であると唱えたばかりに、イスラムの組織宗教側から斬首命令を受けた。ところがその斬首台の上で四肢を切り刻まれつつ語った言葉が、21世紀の今に大きく伝えられている。

私は神であると唱えた時点で、自分と神は逆転を遂げた。大逆転を公然と唱える聖者は多いものではない。そうすることは、危険だからである。

また組織宗教では、教派の如何を問わず、人間である信者が、私は神であると唱えた瞬間に、異端のそしりを受け、磔にあったりする。中東や欧州では、どの宗派であっても最終的には神人合一を目指すはずなのだが、教団側は、神人合一の一歩手前に留まることをベストとし、実際に神人合一になると排斥しがちである。

これは、後進の者が「私は神だ」とやると、教祖の権威を犯すことになるので、組織防衛の見地からそういうことをやるのだろうが、本来お粗末なことであると思う。

 

ハッラージは、刑死前夜、刑務所に300人いた囚人を超能力で枷を解き、扉を開け、全員逃がしてやったのだが、自分だけは牢内に留まった。その理由を問われて、「私には斬首台の上でしか語れぬ、あのお方との秘密がある」と応えている。

彼の処刑には10万人が集まり、早速彼に石を投げ始めたが、途中から知り合いの聖職者が泥を投げたのを見て嘆息して言うには、

『自分がしようとしていることを知らぬ者たちは許されるが、石を投げてはならぬことを知っている者のことは私には辛い。』(イスラーム神秘主義聖者列伝/ファリード・ウッディーン・ムハンマド・アッタール/国書刊行会P357から引用)

 

求道者の立ち居振る舞いは、かくの如く厳しさを求められる。曹洞禅の師家でも悟りなどないと主張し、未悟の修行者を混乱させる方がいたことを知った(「悟り体験」を読む 大乗仏教で覚醒した人々)。これでは悟りと修行は一つ(修証一如)と唱える方にはきついのではないか。

 

エックハルトも神との合一を表現したが、異端認定されないように苦労したらしい。

 

人間が神に逆転するということは、人間の側から見れば、狂人とされ相手にされない、異端と認定され迫害される、神人として尊敬されるの三種類があるが、この世界的近代西欧文明では、狂人とされるか異端とされるかがほとんどである。あの世界的村八分になったOSHOバグワンへの扱いは、その典型である。

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メキシコの中心太陽に飛び込む

2024-05-01 03:10:40 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-10-29

◎垂直上昇への仕掛け-29

◎大逆転と倒立-8

◎無限は信じられんほど魅惑的なのだ

 

平たく言えば、中心太陽(central sun)に飛び込むことが神人合一であって、大逆転、倒立である。

中心太陽へ飛び込むことを深淵に飛び込むと表現しているとしか思えない場面が、カルロス・カスタネタ・シリーズにある。 

 

ドン・ファン・マトゥスは語る。

『「いったん無限のなかへ入ってしまったら、わしらに頼って連れ戻してもらうわけにはいかんぞ」ドン・ファンが言う。

「そのときはお前の決断力が要求される。もどってくるかこないかを決められるのはおまえだけだ。それからこれも警告しておかなきゃならんな。無限とのこの種の出会いを生き残れるのは、ほんの一握りの戦士・旅人にすぎんということをだ。

無限は信じられんほど魅惑的なのだ。だから混乱と圧迫と騒音と苦痛に満ちたこの世界へもどってくるのを、戦士・旅人はこのうえなくつまらないものに感じる。

いいか、よく覚えておけよ、とどまるかもどってくるかを決定するのは、道理にかなった選択の問題ではなく、それを意図することなのだということをな。

もしもどってこない方を選べば、おまえは大地に呑み込まれたように消えてしまうだろう。だがもどってくる方を選ぶなら、ベルトをしっかり締めて本物の戦士・旅人のように自分の任務が完了するまで待たねばならん。その任務がどんなものであろうとも、そしてまた成功におわろうと失敗に終わろうともだ。」』

(無限の本質/カルロス・カスタネダ/二見書房P295-296から引用)

 

無限とは中心太陽のこと。飛び込もうとチャレンジした者の多くは宇宙の藻屑として消えてしまう。

最後にカスタネダはこれに飛び込むが、なぜか断崖に向かって勢いよく走っていて深淵に飛び込むと書いてある。

飛び込んだ先のことは、言葉で表現できはしないので、何も書かれてはいない。

 

師匠ドン・ファン・マトゥスは、飛び込む時の気構えを『最高に理性的な気持ちで行わなければならん』(上掲書P296から引用)と戒める。チベット死者の書の死のプロセスでの、醒めていよ、意識清明にということである。

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