アヴァターラ・神のまにまに

精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。

わたし自身に我が身を犠牲に捧げて世界を逆転

2024-05-19 05:29:17 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-4

◎世界樹-2

◎世界樹に吊り下がっている人間の姿

 

イグドラシルには、世界が倒立しているニュアンスはない。そこで万神の主宰者オーディンが登場してくる。

 

オーディンの箴言から、

『箴言138.

わしは、風の吹きさらす樹に、九夜の間、槍に傷つき、オーディン、つまり、わし自身に我が身を犠牲に捧げて、たれもどんな根から生えているか知らぬ樹に吊り下がったことを覚えている。』

(エッダ-古代北欧歌謡集/谷口幸男訳/新潮社P38から引用)

 

九は数の窮極であり、「九夜」とは、長さを計れないほど長い時間または時間を超えた世界。時間を超えた世界であるから、もはや個性をも超えた世界を指す。

 

「槍に傷つき」とは、クンダリーニというエネルギー・コードに刺し貫かれていること。

 

「わし自身に我が身を犠牲に捧げて」というのは、自分というものがない絶対者(神、仏)のレベルに至っていること。絶対者においてレベルなどはないが、ここはわが身を捨てるのだ。

このあたりは、古神道の出口王仁三郎が、本来の自己である本守護神を奉斎させたのと同じ。

「誰もどんな根から生えているか知らぬ樹」とは、根っこが絶対者のこと。天である絶対者という根っこからあらゆる人間、動物、生物、無生物というエネルギー・コードの枝葉が伸びている。逆に人間の側から見れば、根っこに向かって上昇していくように見える。

このようにこの箴言は、クンダリーニ・ヨーガ型の冥想体験で、絶対者(オーディン)に到達して、その後絶対者の側から、エネルギー・コード(クンダリーニ)にぶら下がった人間の姿を「世界樹に吊り下がっている人間」の姿と見たものであることがわかる。

つまりこの箴言の視点は人間の視点からではないが、この風景はいつもおなじみのタロットカードの「吊るされた男」で見かける風景であった。

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種の世界と変動する現実世界

2024-05-19 03:06:21 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-10

◎アートマン-10

◎第六身体アートマンの様々なアスペクト-2

◎第六身体とアカシック・レコード

 

第六身体は、一つながりのものであり、アートマンである。ところが、一つの謎がある。

まずアカシック・レコードあるいは、アーカーシャ、これは、現在・過去・未来のすべてが詰まった情報集積体であり、メガ・データ・ベースでもある。さらにこれは、躍動する現実世界全体の集合体でもある。

現在・過去・未来、そして時間・空間・物質も一つながりであるがゆえに、未来が変えられるのと同時に、当然に過去も変えられる。

人は自分のする善行と悪行で、時々刻々世界の未来と過去を変えている。

これは、第六身体の変動する部分。

 

ところが第六身体アートマンには、時間のない世界、時間のない部分、永遠に変わらない部分がある。それが原型、プラトンの言うイデアの世界である。

世の中には何百万もの花があるが、すべてイデアの世界にある現象の「種」の世界に花イデアがあり、その花は、ひまわりとして咲き、チューリップとして咲き、薔薇として咲き、散る。

イデアの世界の花イデアは永遠不滅であり、一方現実世界のひまわりもチューリップも薔薇も、つぼみをつけ咲き、散り、変化し滅びる。

つまり、アカシック・レコードとは、カルマの集合体でもあるのだが、永遠不壊の部分と変化生滅する部分の二相を持つかのように見える。これが謎。

ところが、どうしても時間がある前提で世界を考えがちな我々に対して、ダンテス・ダイジは、『現在・過去・未来、そして時間・空間・物質はもとより一つながりのものである。それが人間の意識にとっては、時間・空間・物質が、現在・過去・未来のスクリーンに展開しているように見える』というように示唆しているように思う。(ダンテス・ダイジは“言葉”ではこのようには説明していないのではあるが。)

種が映写機であって、フィルムがカルマ、スクリーンの映像が現実にして幻影とも言える。

 

要するに素人目には、アートマン、この一つながりのものは、永遠不壊な部分と変動するカルマの集積体の部分という二重構造に見える。ところが、実際はそうではなく、カルマの集積体にしてあらゆる現実というのは、人間の頭で作り出した幻影にすぎないものであって、そこを諸行無常とか、空とか色即是空という。よって現実・カルマの側をプラトンは洞窟に現れた影とする。

結局アートマン、第六身体、このひとつながりのものは、最初から永遠不壊であっただけで、二相性はなく、変りはしなかったということなのだろうと思う。これが神界ということ。

このアートマンの見方は、人類だけでなく、犬猫の動物にも無生物にも宇宙人にも通用する類の見方ではあるが、そこまで透徹するのがひっくり返った世界というものなのだろう。

さらにこれに関連して前世記憶の問題もある。

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愚者と世界

2024-05-18 16:48:25 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-12-1

◎悟りへの22段のパス⇒タロット・カード-1

◎ニルヴァーナから迷いまで

 

世の中には、第七身体ニルヴァーナから第一身体肉体・物質レベルまでを網羅しているシンボル体系は意外に多くないものだ。七つの身体論、禅の十牛図などはその例だが、タロット・カードもその一種である。系譜としては、西洋錬金術あるいはユダヤ教神秘主義だが、その正統性は端倪すべからざるものがある。

タロット・カードは、西洋の悟りへの22段のパスであって、いわば禅の十牛図のようなものである。

さて、今日の運勢占いとして大アルカナ22種のうち1枚を引く人もいるだろうと思う。最近のタロットの絵柄はこなれてきて、伝統的なタロットのタロットである所以の特徴をも壊してしまった破格の図柄のものも多数出てくるようになった。その一方で、カモワン・タロットを丁寧に復刻したホドロフスキーのような伝統重視のタロットもある。

禅の十牛図は、十が確定ではなく、四牛図もあれば、六牛図もある。チベット密教には十五段の牧象図もあるからタロットが二十二人図であっても一向に構うまい。

悟りとは、第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナのこと。物事の順序には、迷い(マーヤ)を一番に置くタイプと、悟り(ニルヴァーナ)を一番に置く逆順のスタイルがある。

そこでまず、タロットの何がニルヴァーナであって、何がアートマンなのかということになる。0番愚者がニルヴァーナであって、21番世界がアートマン。旅の始めは迷いの1番魔術師。

 

それとあまり意識されていないかもしれないが、ホドロフスキーは、左右対称のシンメトリーは悪魔的であって、左右非対称が神的であることを発見したと述べている。彼は日本の御所とパリのノートルダム大聖堂でそのことを確認した(タロットの宇宙/国書刊行会P32)。これがタロット・カードが1ステップ1枚で直線として構成されている理由である。

 

※参考:大アルカナ22枚の順序(カモワン版)

0 愚者(道化師)

1 魔術師

2 女教皇(女司祭長)

3 女帝

4 皇帝

5 教皇(法王、司祭長)

6 恋人達(恋愛、恋人)

7 戦車(征服者)

8 正義(裁判の女神)

9 隠者

10 運命の輪(運命、運命の車)

11力(剛毅)

12 吊された男

13 死神

14 節制

15 悪魔

16 塔(神の家)

17 星

18 月

19 太陽

20 審判(永劫)

21 世界(宇宙)

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イグドラシル

2024-05-18 16:30:08 | ジェイド・タブレット外典

◎ジェイド・タブレット-外典-11-3

◎世界樹-1

◎エッダの宇宙樹

 

世界樹のシンボルは世界中に見られる。有と無という事で言えば、世界樹は有の世界であって、無の世界ニルヴァーナではない。ただし世界樹の説明の中に、その位置が世界の根源や世界の中心だと示したり、泉などニルヴァーナを暗喩するものが置かれている場合もある。

つまり世界樹はどちらかと言えば、人が神仏に大逆転することを主眼として置かれているのである。

 

さて北欧神話エッダの宇宙樹イグドラシルは巨大なトネリコで、あらゆる樹木の間で最大最良のもので、世界の軸であり支柱である。

その枝は、全世界をことごとく蓋い、天に達している。三本の根は神々の世界アースガルズと、氷の巨人の世界ヨトゥンヘイムと、死者の世界ニヴルヘイムの3つの世界に伸びている。

各世界の根元には泉があり、死者の世界ニヴルヘイムの泉は、フェルゲルミルと呼ばれる。この泉は、大地を潤すすべての大河の源泉であり、大地を人間の住める場所にしている。地母神は死の世界に発する。

さらにフェルゲルミルの泉には有翼の巨大な蛇ニーズホッグが棲み、根をかじっている。有翼の巨大な蛇ニーズホッグは、言うまでもなく、クンダリーニである。

巨人と言えば唐突だが、滅亡したアトランティス人を指して巨人と呼んでいるのではないかと考えている。オーディンは巨人の泉ミーミルの水を飲んで智慧を得た。

 

時代が下って8世紀、サクソン人は、この地方の宇宙樹信仰のシンボルであった大木の幹でできた宇宙の柱イルミンスルを崇拝していたが、772年神聖ローマ帝国カール大帝がこれを破壊することでサクソン人との開戦となった。

(イルミンスル所在地:ヴェストファーレン州、オーバーマルスベルク)

これにより、ドイツも、世界の死の部分、闇の部分を覆い隠すアポロン的西欧文明優勢の世界に組み込まれていくことになった。

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苦行、タンキーからダヴィンチ・コード

2024-05-18 05:31:42 | 究極というものの可能性neo

◎ゾイゼの徹底した苦行ぶり

(2018-10-14)

 

東南アジアでは、タンキー(童乩)とよばれる自分の肉体を針や釘などで刺す苦行者に出くわすことがある。そういうのが祭礼などで行われ、わざわざ人込みでやらなければいけないものなのかと奇妙に思う。

またそういう映像が、グロ画像としてネットに出回り検閲者の目に止まり削除されることがある。テレビでフィリピンのキリスト教の祭礼で、十字架に生きた男性を載せ、両掌のひらを釘で打ち付け、苦痛に顔をゆがめながら十字架が立てられるシーンをやっていたが、その番組ではネットから削除されるグロ画像の一つとしての扱いだったが、その残酷さは最初はタンギーかと思ったくらいだった。東南アジアにはなぜか苦行の伝統がある。

映画「ダヴィンチ・コード」で、カトリック系の一会派オップス・デイの暗殺僧が苦行を繰り返すシーン(鞭で背中を打ち、釘付き鎖で太ももを締め付け続ける)が出てきて衝撃を受けた人もいたかも知れないが、かのドイツのゾイゼは、あの苦行の10倍以上と言っても差し支えないほどのものだった。

 

ゾイゼは、イエスの苦しみをわが身の体験とし、自らの罪をあがなうためにあらゆる苦行を24時間やった。

釘30本付きの小さな木の十字架で背中を叩く(8年間)、150本の釘付き腹ベルトを巻く(16年間)。寒中の暖房のある部屋に入らず、暖房に近づきもしない(25年間)。沐浴をしない(25年間)。食事は日に一度だけ。布施ではお金は受け取らない。

このようにゾイゼは身体にくつろぎを与えるあらゆることを避けてきた。

こうしたある日、ゾイゼは、さらに食事の飲み物さえ少量しかとらないようにした。するとある夜、天の婦人から天の飲み物を心行くまでたっぷり与えられ、口の中に小さな柔らかいマナのようなものが残った。

 

苦行をやるというのは、能動的に痛みを受けるということで、相当な自覚がないと何年も継続できることではない。

生きていること自体が公案である現成公案の現代とは、生きていること自体が苦行に近いというべきか。ただ食うために生きるだけでも全力を傾注せざるを得ない上に、それだけでは魂のかわきは癒されないので、寸暇を惜しんで冥想をしないと正気で生き抜けない時代となって久しく、大物覚者は世を去って久しい。

自分がある限りこの苦行は続く。

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ゾイゼの第六身体、第七身体

2024-05-18 03:12:29 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-9

◎アートマン-9

◎第六身体アートマンの様々なアスペクト-1

◎自己放下、神への沈潜と一者

 

ゾイゼが第六身体を語っている。

『根源の一者に、再び導かれることになっている、すべての人間にとって有益なのは、自らと万物の始原を知ることです。というのは、それによって、そうした人たちの最終目標も定まるからです。ですから、かつて真理について語った者はすべて、絶対の原初で、最も単一な何かがあり、それに先んずるものは皆無であるという点では、一致した意見を抱いていることを、承知しなければなりません。』

(永遠の知恵の書/ドイツ神秘主義叢書 6 ハインリヒ・ゾイゼ/創文社P175から引用)

 

ゾイゼが第六身体のことを根源の一者とよび、自らと万物の始原であり、絶対の原初で、最も単一な何かであると、三様の表現をとっている。これは有の側。また根源の一者は終わりがなく測り知れず、理性によって知ることはできないとする。言葉による表現も排除する。

 

さらに自己放下と並行して起こる神への沈潜の始まりと終わりがこの一者であることを認めている。

 

かつまたその先は皆無であるとし、皆無であることを確認したのだ。これが第七身体ニルヴァーナ。

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第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの間のサマーディ-3

2024-05-17 03:48:00 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-8

◎アートマン-8

◎夢の中で意識的になって、はじめて現実を知ることができる

 

第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの間のサマーディについて、このように図式化すると、これを正統的な理論として、あるいは体系として実践訓練しようとする人が出てくるのだが、OSHOバグワンはそれを戒める。

 

『夢の世界全体を知るつもりなら、ヨーガやタントラやその他の秘教的訓練が導入されなければならない。どのタイプの夢にもそれと対応する現実があり、マーヤー全体が明らかにされないなら、幻想の世界全体が明らかにされないなら、現実を知ることは不可能だ。現実は、幻想を通じてしか明らかにされない。

だが私の語ってきたことをひとつの理論として、ひとつの体系として受け取ってはならない。ただ それを出発点にして、意識的な心で夢見ることを始めなさい。夢のなかで意識的になってはじめて、現実を知ることができる。』

(秘教の心理学/和尚/瞑想社P143から引用)

 

何が夢で、何が現実か。マーヤー、無明全体を知るとは、迷いの世界のすべてを知ること。

これを解くのに参考になりそうな詩がある。ダンテス・ダイジの詩【そしてあなたは私自身】から

 

『幾度も幾度も繰り返される夢

夢見つづけるブラフマン

無数の意識の流れ

輪廻し 上昇しあるいは再び下降し

そして帰り着こうとする流れ

 

眠り続けるブラフマン

一人の人間の中にある無限の宇宙

あらゆる生類達の多様多元の宇宙

一人の人間の中に接弦する多元宇宙 

夢見つづける宇宙

 

久遠の時の中の遠い遠い夢

うつし世の胸高鳴る甘美な悦び

そして苦しみ 深い深い嘆き

夢見つづけるブラフマン

目覚めることのない久遠の夢

すべてを秘めて眠るアガシャの夢の海』

(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジ/森北出版社P72-73から引用)

※アガシャ:「天と地とを結ぶ電話/J.クレンショー 著/谷口清超訳/日本教文社1968」の目次に「アガシャの哲學、アガシャの言葉 」とあるが、アガシャとは古代霊らしい。

 

一人の人間の中に無限の宇宙があり、あらゆる生類達に多様多元の宇宙があり、一人の人間の中に接弦する多元宇宙は夢見つづけているが、そのあらゆる夢を覚めて見よということだろう。

それがマーヤー、無明、幻想全体を知るということ。それは一瞥でなく、幻視でなく、体験とは言えない体験なのだろう。

 

また『意識的な心で夢見る』とは、クンダリーニ・ヨーガの手法。それでもって荘周は、荘周が夢の中で胡蝶となったのか、それとも胡蝶が夢の中で荘周になったのかと悩んだ。それは、単に妙な夢を見たということではない。どちらが幻想で、どちらが現実だったのか。

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破竈堕(はそうだ)和尚

2024-05-16 12:41:15 | 丹田禅(冥想法8)neo

◎竈の神が成仏する

(2015-04-30)

 

破竈堕和尚は、唐代中期の人、嵩岳(すうがく)の慧安国師の法嗣である。

破竈堕和尚は、嵩岳に隠棲していたが、嵩岳の近在のある霊廟に祟りをなす竈の神がいると聞きつけた。

ある日和尚は、侍者を連れてその霊廟に入り、杖でその竈を三回叩いて言った。「こら、この竈はただ泥と瓦でできているだけだ、お前はどこからきて、祟りをなすのだ。」

そしてまた竈を三回叩くと、たちまち竈が崩れ落ち、青い衣と高い冠をつけた人物が出現し、和尚を礼拝した。

 

和尚がお前は誰だと問うと、その人物は、「私はもともとこの竈の神で、長い間カルマの報いを受けていた。本日和尚の説法のおかげで、竈を脱し、天に生まれ変わることができた。そこでここに戻って謝意を表するものです。」

和尚は、「これはあなたの本有(ほんう)の性(本来の自己、アートマン、十牛図の牛)です。私の説法の力などではない」

竈の神は一度礼拝して、姿を消した。

以後和尚はこの故事を以って破竈堕和尚と呼ばれた。この話は除霊のことではない。

竈の神ですら、自分が本当は一個の神であることを悟る。いわんや人間をや、いわんや仏弟子をや。その悟りは他人から教わるものではない。

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第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの間のサマーディ-2

2024-05-16 03:38:11 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-7

◎アートマン-7

◎万象の種子がある世界からそれすらもない世界へ

 

「玉ようかん」は、風船に詰められたピンポン球サイズの和菓子で、爪楊枝で風船をつつくと風船が割れて中の羊羹が食べられるようになる。第六身体アートマンは、爪楊枝よろしく中心太陽に突入するが、その羊羹たる第七身体ニルヴァーナの属性を前段に引き続いてOSHOバグワンが述べる。

 

『だから第六身体において実体性(ポジティブ)が消え失せたら、あなたは第七身体に入ってゆく。第六の現実が第七の扉だ。実体性が存在しなければ―――どんな神話もどんな夢もなければ―――夢はやむ。そのときには、ただあるものが、真如がある。いまやなにも実在しないが、実在がある。ものごとはないが、源がある。木は存在しないが、種子はある。

 

知るに至った者たちは、このような心を種子のあるサマーディ―――サマーディ・サヴィージ―――と呼んできた。あらゆるものが消え失せ、あらゆるものが始原の源、宇宙の種子へと帰還する。木は存在しないが、種子はある。だが種子からも夢見はなお可能なため、種子でさえ破壊されねばならない。

 

第七身体においては、夢も現実も存在しない。夢見が可能な地点までは現実のなにかを見ることができる。もし夢の可能性がないとしたら、現実も幻想も存在しない。だから第七は中心だ。もう夢と現実はひとつになった。どんな違いも存在しない。無の夢を見ようが、無を知ろうが、無は同一のものにとどまる。

 

もし私があなたの夢を見るとしたら、それは幻想だ。もしあなたを見るなら、それは現実だ。だがあなたの不在の夢を見ようと、あるいはあなたの不在を見ようと、なんの違いもない。あなたがどんな不在の夢を見ても、その夢は不在そのものとしては同じだ。実体的(ポジティブ)なものに関してしか、本当の違いは存在しない。だから第六身体までは違いが存在する。第七身体においては無しか残らない。種子についてさえ、その不在がある。これがニルヴィージ・サマーディ、無種子三昧だ。もはや夢見の可能性は存在しない。』

(秘教の心理学/和尚/瞑想社P141-142から引用)

※実体性or実体的:それ自体によって存在し、また他の存在を必要とせずに存在する様。

 

これによると、扉だ、サマーディだと彼は殊更に強調するが、あまりボディたる第六身体のどこが扉なのかは明確ではない。ただ有種子三昧(サビカルパ・サマーディ)が起これば、無種子三昧(ニルビカルパ・サマーディ)に進まざるを得ないというモウメンタムはわかる。

ダンテス・ダイジの冥想十字マップでは、有種子三昧に相当する有相三昧と、無種子三昧に相当する無相三昧とを空間的進化の横ラインに置き、第六身体の知恵と第七身体ニルヴァーナを時間的進化の縦ラインに置いている。つまり単純に有種子三昧(サビカルパ・サマーディ)が第六身体アートマン、無種子三昧(ニルビカルパ・サマーディ)が第七身体ニルヴァーナだと考えるべきではないということなのだろう。

その体験とは言えない体験の中で、扉と部屋の中味が自ずとわかるということだろうか。

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目次9

2024-05-15 12:56:19 | 目次(カテゴリー別)



【【ニルヴァーナ】【ザ・ジャンプ・アウト-11】neo】
スピリチュアルの暗号解読(海王星の発見から)


【【エーテル体】【ザ・ジャンプ・アウト-06】neo】
オルガスムの法則(エーテル体レベルでの現象  )
 グルジェフのエーテル体(遠隔治療の原理)
 エーテル体の色(肉体の回りの青みがかった光)
 平田篤胤の養父篤穏の養生法(エーテル体のイメトレ)
 OSHOのヴィパッサナー-1(想念と行動の意識化)
 OSHOのヴィパッサナー-2(出入する腹への気づき )
 OSHOのヴィパッサナー-3(入息出息を鼻の先で見守る)
 OSHOのヴィパッサナー-4(取扱注意が必要な呼吸覚醒)
 エーテル体の形状と位置づけ(エーテル体の形状と位置づけ)
 生気に乗った生命(エーテル体の形状と位置づけ(続))
 エーテル体の性質(睡眠時にエーテル体は肉体から離脱)
 メスマーの27の法則-1(人間と全宇宙は常にシンクロしている)
 メスマーの27の法則-2(気の力を自在に操れる人もいる)
 メスマーの27の法則-3(エーテルとアストラルの区別)
 第二身体は、濃縮した煙(神霊原子)
 不完全なる霊素(陰陽・火水からどのように半物質、物質へと変わっていくか)

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大物主神、レディの秘所を突く-2

2024-05-15 06:28:46 | 古神道の手振りneo

◎古事記の天国と地獄の結婚-3

(2019-09-14)

 

ギリシア神話では頻出の、男神と人間の娘の結婚。古事記では、三輪山の大物主神が、美人の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)と交媾し、神の子富登多々良伊須々岐比売命(ホトタタライススギヒメノミコト)が生まれた。

これについて出口王仁三郎が言霊解を出している。まずトイレで御用たし中の美女を下から大物主神が赤い矢に変身して襲う段。

乙女(美人)の最もデリケートな部分を神に突かれたという衝撃により、乙女は至誠に目覚めそれまでの退嬰的消極的な姿勢を改め、積極的に四方に奔走し、敬神勤皇報国のために大々的活動を開始されたこととみている。

要するに大悟覚醒し、本来の自己、大神、アートマンに出会うというショックを受けて、人格も行動も至誠を基にするという形に全く変わってしまったという意味。

ここで注目すべきは下から突かれたという点。個室にて最もリラックスし、神に対してオープンとなった時に下から突かれたのである。サハスラーラは上だろうに。

この上下の見方は、神の側から見れば、世界樹モデルで見るが如く、世界樹の根が全体であり、枝葉が個。ところが人間で言えば、頭の側が根となる。これは人間にとっては逆転である。タロットカードの吊るされた男の姿。

正神が下から突くことはあり得ない。

 

古事記、霊界物語では、類似の上下逆転のモチーフがある。神界の大立者野立彦命が富士山火口に飛び込むシーンである。これは上から下への落下。現代なら単純にクンダリーニが上方に突き抜けてメンタル体で肉身を離脱し、アートマンに至り云々と解説するところを、古神道ではことさらに逆の表現をとる。

野立彦がダンテスの別称であることも知られているが、その文字配列すらも逆転した並びではある。

どうも古神道は、このように上下逆転して表現するのが好みなのではないかと思う。

女性が悟るというのも珍しく、意味深長。

だが、赤い矢が美男子に変身したという男の大悟覚醒シーンも含まれてはいる。男女同時に悟る。

 

以下は、出口王仁三郎の解説。

 

『『其の美人の富登を突き給ひき』

 ホトの言霊は霊地(ほと)であり、秀所(ほと)であり、地の高天原である。亦た局処(つぼと)である。神宮坪の内と謂ふ意義もあります。

 突き給ひきと云ふ事は、肝腎要めの局所を突き止め、見極められたことであります。

 

 ヲトメの言霊を解説すれば、

 ヲは祭り守らしむる也、長也、治む也、教也、緒也、結びて一と成る也。

 トは結び定むる也、皆治る也、十也、八咫に走る也。

 メは内部に勢を含む也、本性を写し貽(のこ)す也、親也、発芽也、天の戸也、世を見る也。

 

 以上の言霊は、天地経綸の活用ある女神の発顕にして、祭政教一致の大道場である。即ち皇祖皇宗の御遺訓を遵奉し、且つ顕彰する神示の、聖団のある地の高天原である。

 

 ホトの言霊を更に解釈すれば、ホは上に顕る也、活霊也、照込む也、火(ほ)の水に宿る也、日の足也。

 トは通り結び納る也、最も迅速疾走鋭敏也。

 則ち、厳の御魂の瑞の御魂に依宿し、最も迅速に鋭敏に活用を照らす日の御子の、足なる十の聖処地の高天原なる事が伺はれるのであります。

 

 『爾(かれ)其の美人(おとめ)驚きて、立走りいすすぎき』

 をとめは三輪の大物主神に、局処を突き止められ、非常に恐懼措く処を知らず、直に立ちて大神の命を奉じ、四方に奔走して敬神勤皇報国の至誠の為に、大々的活動を開始されたといふ事であります。

 『いすすぎき』と云ふ概略な意義は、勇み進み君国の為に至誠至忠の大活動を為す事であります。吾々皇道大本の信者も、君国の為めに、至誠以て天地を貫くの大々的活動を致さねば成らぬ時運に到達致したのであります。

 

 『乃(かく)て其の矢を将来て、床の辺に置きしかば、忽ち麗はしき壮夫(おとこ)になりて、即ち其の美人に娶(めあ)ひて生みませる御子、名は富登多々良伊須々岐比売命』

 

 そこで其の矢を将来て、床の辺に置きしと言ふ意味は、改造された三輪の大物主の化身を、最も尊き座に置き奉って、将来の大国家の経綸を、勢夜陀多良比売から一々詳細に申上げると、大物主神は、初めて神意を覚り給ふと同時に、今迄の御煩慮は忽然として消え失せ、勇壮活溌なる大丈夫に身魂が改造変化され、将来に望を抱かれ、楽天、進取、清潔、統一の大精神を確持し、美人(瑞霊)と見合はし聞合はし宣り合はして、立派な御子を生み玉うたのであります。

 

 ミコの言霊を解すれば、

 ミは玉に成る也、◎を明かに見る也、真也、満也、三也、形体具足成就也。

 コは天津誠也、脳髄也、一切の真元と成る也、全く要る也。

 即ち玉と成る也は、玉は天下統治の表象である。◎を明かに見る也は、皇国の大使命を日神月神の光に依りて悟る事である。真也は至真至美至善の神徳である。満也は光輝六合に満ち渡る事である。三也は主師親の三徳及び三種の神器である。形体具足成就也は、君民一致の神政完了する事である。

 

 天津誠也とは、惟神の大道にして麻柱の究極である。脳髄也は、万有一切を司宰する主脳の意義である。一切の真元也とは、政治宗教教育哲学等一切の真相本元を究極し、且指導する事である。全く要る也は、全大宇宙を神の意志に依りて統御し要むる事である。

 

実に三輪の大物主神と大便所に入れる美人と肝胆相照し以て宇内無比のミコを生み給ふと曰ふ、実に結構なる皇宗の御遺訓であります。』

(出口王仁三郎全集第5巻 神武天皇御東征之段P19-22から引用)

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大物主神、レディの秘所を突く-1

2024-05-15 06:22:19 | 古神道の手振りneo

◎古事記の天国と地獄の結婚-2

(2019-09-09)

 

『古事記』によれば、三輪山の大物主神は、今を時めく美人の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)に一目ぼれした。大物主神は、すかさず丹塗矢に変身して、その美人がトイレで大便中に下水溝を流れ下って便器に至り、ぐさりと彼女のホトを突いた。

すると不意を突かれて彼女はあわてふためいたが、気を取り直し、その矢を持ち帰って床の辺に置いたところ、矢はイケメンの男になったので、二人はすぐ交わった。

この二人の間に生まれた子が、富登多々良伊須々岐比売命(ホトタタライススギヒメノミコト)であって、神の子と謂われた。

三輪の大物主神は、世界各国の帝王又は大統領たちを司宰する大帝王のシンボル。彼が、世の中の醜き低きところの極み(大便所ではあるが、万物の生れ出る根源でもある)まで探して恋い求め、混乱する世界の肝腎かなめの局所を突きとめ、見極めた。

出口王仁三郎によれば、ホトタタライススギヒメノミコトを言霊で解釈すれば、直霊の御霊の光り、太陽の如くに明かに照り渡り、雲の上に伊都能売(天国と地獄の結婚)と顕はれて、永遠無窮の天下は治まりて静かである五六七(みろく)の仁政を施いて、世界を統一するということ。

五六七の神の御代の現象は、実にホトタタライススギヒメノミコトとシンボライズされ、彼女こそ古神道の天国と地獄の結婚である。

天国と地獄の結婚の表現としては、天照大神と素戔嗚神の誓約がやや複雑なのに対し、こちらの方はやや単純にできている。

古神道、クンダリーニ・ヨーガ系、密教系では、聖性の材料のシンボルとして、時に大便、小便が用いられる。善言美辞が基本ではあるが、プロの世界では、そういうものだと心得て読みたい。先入観を壊す。

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第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの間のサマーディ-1

2024-05-15 03:54:00 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-6

◎アートマン-6

◎あらゆるものが始原の源に帰還

 

第六身体と第七身体との間にサマーディがあると唱えるのは、OSHOバグワン。該当箇所は以下。

 

『第六身体においては、鏡は存在しない。 いまや宇宙的なものだけがある。あなたは失われてしまった。あなたはもういない。夢見る人は存在しない。

だが夢見る人なしで、夢はなお存在しうる。そして夢見る人なしで夢が存在するとき、それは真正な現実のように見える。心は存在せず、考える人は存在しないため、なんであれ知られるものはすべて知られる。それはあなたの知識になる。

創造の神話がおとずれ、それは漂い過ぎてゆく。あなたは存在せず、ものごとはただ流れ過ぎてゆく。判断する者はなく、夢見る者はいない。

だが存在しない心が、いまだにある。滅せられた心がまだ存在する。個としてではなく宇宙的全体として――。あなたは存在しないが、ブラフマンが存在する。

それゆえに全世界はブラフマンの夢だと言われる。この世界全体が夢、マーヤーだ。誰か個人の夢ではなく、全一なるもの、全体の夢だ。 あなたはいないが、全一なるものが夢見ている。』

(秘教の心理学/和尚/瞑想社P140から引用)

 

いつしかコーザル体の上昇は、第六身体アートマンに切り換わり、それが第七身体ブラフマンたる中心太陽に突入せんとしている。このイメージがないと、この件りは何のことかわからないのではないか。(改めてダンテス・ダイジの偉大さに感服)

 

『全世界はブラフマンの夢』と語っているが、第六身体アートマンの夢ではなく、第七身体ブラフマンの夢と言った場合、誰が夢を見ているのかとういう問題になる。第六身体である世界全体は、第七身体ブラフマンの夢だとさ。

 

『いまや唯一の区別は、夢が実体的(ポジティブ)かどうかということだ。もし実体的ならそれは幻想、それは夢だ。 なぜなら、究極的な意味においては、ただ非実体性(ネガティブ)だけが存在するからだ。

あらゆるものが無形なるものの一部になるとき、あらゆるものが始原の源に帰還したとき、そのときには、あらゆるものがあり、そして同時にない。実体性が残された唯一の要因だ。それは超えられなければならない。』

(上掲書P140-141から引用)

 

「始原の源に帰還したとき、あらゆるものがあり、そして同時にない。」では、「あらゆるものがある」のが第六身体であり、「あらゆるものがない」のが、第七身体か。「あらゆるものがない」とは、空(色即是空)ではないのだろうか。

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ニルヴァーナ直前のサマーディ

2024-05-14 03:36:46 | ジェイド・タブレット

◎ジェイド・タブレット-11-5

◎アートマン-5

◎第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナの関係性-4

◎冥想の効用のない部分-4

◎各ボディ間サマーディ

 

第六身体アートマンから第七身体ニルヴァーナへ入っていくことは、究極の死であり、棄てることだと、OSHOバグワンは唱える。

さらに誰も言及していないことを彼は言っている。その間で起きるサマーディのことである。

 

なおサマーディには、見ている自分が残ったままのトランス的なサマーディと、見ている自分が存在しないタイプのサマーディがある。

 

『実のところ、サマーディにはいろいろなタイプがある。あるサマーディは、第四と第五身体の間で起こる。覚えておきなさい。サマーディは、ひとつの次元の中での出来事ではない。それはいつもふたつの次元の狭間、黄昏時に起こる。黄昏は昼に属すのか、夜に属すのかと尋ねるのももっともだが、黄昏は昼にも夜にも属さぬ、その狭間の出来事だ。サマーディも同じだ。

最初のサマーディは、第四と第五の次元の間で起こる。このサマーディは自己実現、アートマ・ギャンへと導く。あるサマーディは、第五と第六の次元の間で起き、今度はブラフマ・ギ ャン、宇宙的英知へと導く。第六と第七の次元の間で起こるサマーディは、涅槃へと導く。

だから一般的に、三つのサマーディが起こるのは、最後の三つのシャリール ――最後の三つの身体―の間だ。」』

(奇跡の探求2-七身体の神秘/和尚/市民出版社P414から引用)

 

OSHOバグワンは、サマーディ(三昧)とは、身体と身体の間で起きるもので、いわば(各身体を部屋とみれば)ドアのようなものであって、身体そのものではないとも説明している。(上掲書P416)

これは結構語るべからざるを語っている。

ほとんどの宗教や古伝承でもここまで踏み込んではいない。

人は死ねば三途の川を渡ると言い慣わされているのだが、三途の川は生と死の境目。どういう川かはほとんど説明されることがない。

だが、その渡河の最初から最後までを語っているのはチベット死者の書。狭間(はざま)を語っている。

OSHOバグワンもニルヴァーナへの渡河の道を暗示している。

同じようなニルヴァーナへの橋をイメージできるものとしてダンテス・ダイジが説明したものがある。

 

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クンダリーニ・ヨーガの源流-3

2024-05-13 06:23:21 | 【アートマン】【ザ・ジャンプ・アウト-10】neo

◎不死への上昇

(2014-11-06)

 

(承前)『心臓の脈官は百と一ある。その内のひとつは頭頂へと走っている。(アートマンは)それによって上方におもむき、(頭頂の孔(ブラフマランドラ)から身体を脱けだして)不死に到達する。他(の脈管)はあらゆる方向に出て行くためにある。

 

親指大の人間(プルシャ)、(万物の)内部にあるアートマンは、常に人々の心臓に座を占めている。それを自分の身体から不撓の心で引き出すべきである。ムンジャ草から髓を引き出すようにそれを輝くもの、不死のものと知るべきである。それを輝くもの、不死のものと知るべきである。

 

ナチケータスは死神によって説かれたこの知識と、ヨーガの全規定とを得て、ブラフマンに到達し、汚れを離れ、死を超越した者となった。

 

まさしく最高のアートマンについてこのように知る他の者も(死を超越した者となるのである。)。

 

オーム。われら(師匠と弟子)をともに嘉したまえ。われらをともに益したまえ。われらが共に精進せんことを。 学習したことがわれらに輝かしからんことを。われらが憎み合うことのなからんことを。

 

オーム。平安あれ、平安あれ、平安あれ。』

(世界の名著 バラモン経典/中央公論p150-151から引用)

 

アートマンは人によっては真我と訳すが、これは、個別性があるのかないのか誤解を招きかねない訳語であるように思う。有、「ただある」こそが、アートマンであって、個別性があっては本来のアートマンではない。つまり個別性が残る以上は、個別性の極北であるコーザル体であるときちんと表現すべきものをここでは、アートマンと呼んでいる。個別性の頂点であるコーザル体のこともアートマンと呼んでいるのだ。ウパニシャッドの時代には、アートマンに個別性があるかどうかはあまり問題にならなかったと見るべきだろう。

 

ここで個別性が不死たる中心太陽に到達する。この不死が中心太陽であることを初めて公開したのがダンテス・ダイジ。この時代にそれを公開する意義は、現代人の世界観では、個別性の極限を「不死」という生活実感の中でとらえるのではなく、肉体の死にも不死にもこだわらず、ビジュアルにこの世界を越えたいわば異次元の、自分というものをも捨てた先に有ることを鳥瞰的にとらえる必要があると見たのだろうか。

 

スワミ・ヨーゲシヴァラナンダによれば、コーザル体は心臓の位置に見え、アートマン(真我)も心臓内の洞窟に見える。この見え方を前提として、心臓からの脈管という表現があるように思う。そもそもアートマンに個別性はないのに、なぜか心臓の位置に、原子よりも更に小さい球体として霊視できるとしている。

 

おまけにスワミ・ヨーゲシヴァラナンダのコーザル体の説明では、コーザル体の一番外側はブラフマンの光球であると説明している。コーザル体は個別性があるが、その中に個別性のないかつ全く次元の異なるブラフマンを視認できるとは、妙な気がする。

 

このアートマンとブラフマンはコーザル体を見に行った時に見えるとするが、見る自分というのがあって、アートマンとは見る自分と見られるものとの区別のない状態なのに、「ただある」のアートマンが見えたり、ブラフマンが見えるとするのは、ひょっとしたら霊覚者、霊能者の見方を超えていないのではないかという疑念を禁じ得ない。

 

しかしここではアートマンが心臓にあると説明し、それを抽き出してきなさいと求道のルートを説明している。それが当時の人にとっては、最も受け入れやすい説明だったのだろうが、個別性の極みにある現代人にとっては、心臓をいくら解剖してもアートマンなど発見できないと反論するだろうから、アートマンと個別性の議論と、肉体と七つの身体の議論を整理して出していかないと、我等が無垢なる隣人に理解の糸口をつかんでいただくことすらできないだろう。

 

いずれにせよ、頭頂から自分が脱け出し、不死なる中心太陽に到達することがクンダリーニ・ヨーガの目標であることが、古代インド、ウパニシャッドの当時から王道とされていたことをここでは確認したい。

 

【チャクラと七つの身体-321】

◎アートマン-25

2.ウパニシャッド ◎クンダリーニ・ヨーガの源流-3

(ザ・ジャンプ・アウト375)

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