唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

唐の外交関係 対突厥2

2019-02-04 15:04:52 | Weblog
北方の遊牧民国家は強大になるときも速いですが、衰亡するのも急速です。
また個人の権威によっているわけで、しっかりした統治機関はありません。
突厥頡利可汗も増長したせいか失政が続きました。
周囲の民族に不満がつのっていきます。
唐のほうは高祖・太宗の全国統治が無事に推移し、徐々に国力が回復して行きます。
そして気候変動が寒冷の方にぶれていきます。
貞觀二年、唐は頡利の一族突利可汗を内応させ、突厥に不満な薛延陀の夷男を味方につけます。
そして四年、弱体化した頡利可汗に唐儉を送り講和させます。
状況の悪い頡利は低姿勢で交渉に応じます。ところが太宗は
油断をさせておいて李靖に攻撃させてこれを捕らえます。
その後曲折はありますが突厥所部を解体することに成功します。
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唐の外交関係 対突厥1

2019-02-04 10:10:37 | Weblog
唐は漢民族国家ではなく、北周・隋とともに鮮卑など北方民族が起こした国家です。
長い経過を経て漢化はして行きましたが、漢や宋や明のような漢民族優位という感性はありません。
ともすれば宋代に編集された資治通鑑や新唐書の記載に影響され、中華主義的な国際関係に固着すると間違いを生じます。
唐代突厥・回紇・吐蕃の三国との関係においては上下関係はありますが、対等な外交交渉がされていたと推測できます。
例を挙げれば三国においては唐の年號は使用されていません。
まず当初の突厥ですが、明らかに唐が下です。
突厥の冊封を受けていたと考えてもよいと思います。
時々に朝貢し、可汗の代替わりには祝使を送ります。
武力においてはまったく太刀打ちできません。
度々侵入され、「突厥寇**,***敗之。」の記事が正史に頻出します。
実際に勝利しているのではなく、突厥は掠奪し転進しているだけでしょう。
高祖は危険な長安から逃げだそうと計画したという経過もあります。
武德九年、太宗=秦王世民が兄達を謀殺し、高祖を廃位して自立したとき。
上位にある突厥頡利可汗はその勝手な振る舞いを責めて侵攻してきます。
太宗は自ら出頭して謝罪し、莫大な朝貢をして簒奪を認めてもらいます。
この時も通鑑では
「頡利可汗進至渭水便橋之北,遣其腹心執失思力入見,以觀虛實」
 可汗は思力を派遣し太宗を責めています
太宗は「吾與汝可汗面結和親,贈遺金帛,前後無算。汝可汗自負盟約,引兵深入,于我無愧?汝雖戎狄,亦有人心,何得全忘大恩,自誇強盛?我今先斬汝矣!」
 和約を結んで朝貢しているのに侵入してこないでください。この継承は国内問題です、
 強いからと言って攻めてこられれば戦うしかないですよ。と懇願しています。
「思力懼而請命」
思力は請命=じゃあどうするつもりなんだと言います。
ということで太宗自ら可汗のもとに謝罪にいくのです。
正史では勇ましく数騎だけで渭水へ向かったらしいですが、どう考えても謝罪です。
劉備の「鴻門の会」レベルでしょうね。
貢納に満足した可汗は簒奪を赦します。
そのあとの
「突厥頡利獻馬三千匹,羊萬口;上不受」
なんてお笑いですね。出すのが逆でしょうし、突厥が「羊」をつれて移動してたとは・・・
唐の首都への放牧のつもりですかね。



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