唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

路嗣恭伝

2019-02-19 15:21:50 | Weblog
武将というより有能な地方行政官というべきでしょうが、
出世はやはり武将としてですね。

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路嗣恭伝
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嗣恭[字懿範]は,京兆三原の人。始名は劍客であった。

蔭位によって鄴尉となり。席豫に推薦されて蕭關・神烏・姑臧県令に進み、考績は天下最高と言われ。玄宗により嗣恭と賜名された。

渭南・杜化・東陽県令を歴任し、安史の乱時にも治績を上げた。

永泰元年.戸部侍郎となる。

元年.郭子儀麾下の検校工部尚書兼御史大夫靈州大都督府長史充關內副元帥副使知朔方節度營田押諸蕃等使として朔方節度に屯田し、驕将孫守亮を誅するなど威權もあった。

大暦二年.吐蕃を靈州城下で破り、檢校刑部尚書知省事となった。

六/七年.洪州刺史兼御史大夫江南西道都團練觀察使となり、宦官魚朝恩の残党である奸臣賈明觀を誅し、域内に良政をしいた。

八年.嶺南將哥舒晃は節度使呂崇賁を殺し、南蛮貿易の中心である廣州を占拠した。
代宗皇帝は嗣恭に嶺南節度使を兼任させ、冀國公に封じて晃を伐たせた。

十年.嗣恭は流人達を将として起用して嶺南を制圧し、多数の与党を処刑し、商人達を巻き添えにして膨大な財宝を奪い私物化した。
代宗皇帝は嗣恭が財宝を献納しないことを怒り、功績を評価せず、檢校兵部尚書知省事を与えるのみであった。

十三年.入朝した李泌のとりなしもあり、正任である兵部尚書を与えられた。

十四年.嗣恭は宰相楊炎に贈賄し、兼東都留守となった。

建中二年正月.成徳李惟岳が自立し、嗣恭は東都留守に懷鄭汝陝四州河陽三城節度及東都畿觀察使を加え東都の防衛にあたったが、

九月に卒した。 七十一歳,贈左僕射。

地方官として極めて有能で治績を上げたが、嶺南征討においては私財を積み、虐殺をするなど晩節を汚した。