数々の敗戦にもかかわらず、うまく立ち回って出世した官僚型將軍
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王思禮伝
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營州城傍に居住した高麗人。
父虔威は朔方軍將であった。
思禮は軍人となり、朔方節度使王忠嗣・河西隴右節度使哥舒翰の将として押衙。
吐蕃の石堡城を陥すのに功績があり、右金吾衛將軍充關西兵馬使兼河源軍使となった。
天寶十一載.加雲麾將軍。
十三載.吐蕃との戦いで落馬し脚が不自由になった。特進に進む。
十四載六月.加金城太守。
安祿山が反し、哥舒翰が元帥となったが,病身であり、思禮を開府儀同三司兼太常卿同正員充元帥府馬軍都將として、軍務を一任した。
十五載二月.思禮は翰に乱の原因である楊國忠を誅することを求めたが、翰は應しなかった。
六月.潼關で安禄山軍に翰は大敗し、思禮は呂崇賁、李承光とともに敗走した。
しかし敗戦の責任は承光に負わせて、思禮、崇賁は赦された。行在都知兵馬使。
十月.元帥房琯の兵部尚書.副使として便橋に安禄山軍に敗北。
關內行營節度河西隴右伊西行營兵馬使となり武功を守る。
二年二月.賊將安守忠・李歸仁・安太泰清に攻められ扶風へ退却。
賊は鳳翔へ迫ったが郭子儀が撃退した。
九月.思禮は元帥廣平王に従い京師、東京を回復。
絳郡に賊を破り、戶部/兵部尚書霍國公,食實封三百戶を与えられる。
乾元二年.郭子儀等と安慶緒を相州に攻める。
思禮は關內と澤潞節度兵三萬、馬軍八千で参加するが、軍は史思明に大敗する。
ただ李光弼と思禮は軍を保って退却した。
四月.史思明軍の潞州来寇を撃退。
七月.太原尹北京留守河東節度使兼御史大夫となり、兵備を整備した。
上元元年閏四月.守司空となる。
宰相でなく三公となったのは思禮が最初である。
二年四月.薨,贈太尉,謚曰武烈
戦いには弱いが、軍政には長じた官僚系将軍であった。彼の没後河東節度は衰微した。
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王思禮伝
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營州城傍に居住した高麗人。
父虔威は朔方軍將であった。
思禮は軍人となり、朔方節度使王忠嗣・河西隴右節度使哥舒翰の将として押衙。
吐蕃の石堡城を陥すのに功績があり、右金吾衛將軍充關西兵馬使兼河源軍使となった。
天寶十一載.加雲麾將軍。
十三載.吐蕃との戦いで落馬し脚が不自由になった。特進に進む。
十四載六月.加金城太守。
安祿山が反し、哥舒翰が元帥となったが,病身であり、思禮を開府儀同三司兼太常卿同正員充元帥府馬軍都將として、軍務を一任した。
十五載二月.思禮は翰に乱の原因である楊國忠を誅することを求めたが、翰は應しなかった。
六月.潼關で安禄山軍に翰は大敗し、思禮は呂崇賁、李承光とともに敗走した。
しかし敗戦の責任は承光に負わせて、思禮、崇賁は赦された。行在都知兵馬使。
十月.元帥房琯の兵部尚書.副使として便橋に安禄山軍に敗北。
關內行營節度河西隴右伊西行營兵馬使となり武功を守る。
二年二月.賊將安守忠・李歸仁・安太泰清に攻められ扶風へ退却。
賊は鳳翔へ迫ったが郭子儀が撃退した。
九月.思禮は元帥廣平王に従い京師、東京を回復。
絳郡に賊を破り、戶部/兵部尚書霍國公,食實封三百戶を与えられる。
乾元二年.郭子儀等と安慶緒を相州に攻める。
思禮は關內と澤潞節度兵三萬、馬軍八千で参加するが、軍は史思明に大敗する。
ただ李光弼と思禮は軍を保って退却した。
四月.史思明軍の潞州来寇を撃退。
七月.太原尹北京留守河東節度使兼御史大夫となり、兵備を整備した。
上元元年閏四月.守司空となる。
宰相でなく三公となったのは思禮が最初である。
二年四月.薨,贈太尉,謚曰武烈
戦いには弱いが、軍政には長じた官僚系将軍であった。彼の没後河東節度は衰微した。