唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

王鍔伝

2019-02-16 16:05:23 | Weblog

ある企画で、唐代の諸将略伝集を作ることになり、安史の乱以降、廣明年間までを担当して
いますが、郭子儀や李光弼などの大きなところはあと回しにして、中堅諸将から始めています。一例として「王鍔」です。

-----------------
王鍔伝
-----------------
鍔[字は昆吾]は河東太原の生まれと称するが定かではない。祖系も不明であった。

長じて湖南団練観察府の將となり、左遷されていた楊炎[後に宰相に復帰]に評価された。

観察使嗣曹王皋の麾下として、王國良の乱の鎮定に功績があり卲州刺史に起用された。

建中三年.皋が江西節度使に移るとそれに従い、反した淮西節度使李希烈と戦い。蘄州を攻略して、揚子江を渡って攻撃した。

四年.皐は江西都虞侯江州刺史兼御史中丞に任じた。
鍔は細心で敵情を詳しく調べ、常に皐に伝えたため極めて信頼されていた。

興元元年.皐が伊愼に安州を攻略させた時に助力したが、功績は愼に譲った。

貞元元年.皐が荊南節度使となると副として江陵少尹兼御史中丞としようとしたが、文官幕僚達は鍔の無学卑賤さを嫌ったため軍人たる都虞候に止めるしかなかった。

皐は入朝すると、德宗に「無学だが有能です」と推薦し京官である鴻臚少卿とさせた。鍔はたちまち過去の負債である西域隴右の遺民を整理して莫大な収納を上げた。

貞元五年.評価した德宗は容管観察使に任用し、八年?の任期中に蕃族を慰撫し安定させた。

貞元十一[十年]年.嶺南節度使に転任し、八年間の間南蛮貿易を振興して莫大な財産を築き、高官や宦官に贈賄して高く評価された。

貞元十七年.京官の刑部尚書に昇進した。

貞元十八年.当時重要な方鎭である淮南節度使杜悰は入朝して宰相になることを望み、後任を求めていた。鍔は志願して檢校兵部尚書淮南行軍司馬となり、悰は早々と入朝していった。

貞元十九年.淮南節度使に就任した。
鍔は無学ではあったが下位から昇進したので、吏員の業務に通じ、帳簿処理には優れていたため極めて効率の良い統治を四年間行った。

検校僕射から検校司空に昇進し、常に贈賄に努めた。

元和二年.浙西李錡が反したので、鍔は統諸道兵為招討處置使として諸道兵を率いて伐つことになったが、これはすぐ浙西内部で鎮定されてしまった。

三年.入朝して宰相になることを望んだが、文官に反対され、尚書左僕射に任用されたが、
すぐ検校司徒河中節度使に出された。

五年.老耄した河東節度使范希朝の後任となり、兵備を立て直すなど功績をあげた。
憲宗皇帝は収賄していた宦官の推薦もあり使相に任用するつもりであったが、宰相李藩や權德輿に反対された。

八年.振武軍乱に際して兵を派遣して鎮定させた。

九年.河東節度使のまま使相に任用された。
反乱していた淮西と対峙する軍閥宣武軍節度使韓弘は、鍔が使相として自分と同格になるのが極めて不満であった。そこで憲宗は慰撫するため三公である守司徒に昇進させて慰撫した。

十年.河東將劉輔が豐州刺史燕重旰を殺して乱したが鎮定した。

十二月.薨じた。76歳。贈太尉。諡曰魏。

将としても行政官としても有能であったが、卑賤の出身であり無学であったことと、宦官等に対する贈賄するため、清流の文官達から常に誹られていた。
本人は「春秋左氏傳」程度を読んで儒者と称して恥じるところは無かった。
閨閥としては太原の名門である王翃の麾下に入っている。