唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

周智光伝

2019-02-21 18:55:37 | Weblog
安史の乱と吐蕃の侵攻により、唐朝が極めて弱体化した永泰-大暦年間、実力がないにも関わらず増長専権した武将の例として周智光をあげておきます。

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周智光伝
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智光は騎射に優れ、兵卒より将軍に昇進した。故に系統は不明である。

觀軍容使の宦官魚朝恩が陝州に鎭するとそれに従った。

廣徳元年.朝恩のひきにより華州刺史同華二州節度使潼關防御使となり、檢校工部尚書兼御史大夫を加えられた。

永泰元年.吐蕃回紇黨項等の大軍が奉天、醴泉等縣に来寇すると、智光は迎撃し澄城に破った。
そして追撃し鄜州にいたるが、鄜坊節度使杜冕と対立し、その家族を殺害しも坊州を焼き払うという暴挙を行った。
吐蕃に京師を陥された弱体の唐朝は、朝恩をはばかりこれを処罰できず、ひたすら智光を慰撫し,杜冕を避難させるのみだった。

大暦元年.智光は亡命不逞の兵数万を集め、陝州節度使皇甫溫と対立し、その監軍張志斌が入朝するのを殺した。

十二月.さらに増長した智光は勝手に前虢州刺史兼御史中孫龐充を殺し、諸節度使の進奉を横取りした。

代宗皇帝はそれでも尚書左僕射に任じて慰撫しようとしたが、智光は従わず反抗した。

大歷二年正月.關內河東副元帥郭子儀に智光を討たせた。
しかし京師と河中の道が智光により断絶させられていて密使を送らねばならぬ体たらくであった。
子儀が出兵すると、怖れた智光の配下はすぐ裏切り。
大將李漢惠は同州をもって降った。
唐朝は智光を澧州刺史に貶し、將士は恩赦するとした。
たちまち智光とその家族は配下により殺害され、与党も誅された。

淮西節度使李忠臣は入朝の途中であったが、潼關を突破し華州を大掠した。

智光の行動の背景には、唐朝の弱体とともに、武将達の功績があったにもかかわらず來瑱や僕固懷恩が、宦官達の讒言により簡単に使い捨てられたことなどにたいする、代宗皇帝への強い不信感があったとみられる。