無能で定見の無い肅宗皇帝や無責任な文官達に翻弄されて自滅していった將軍の例
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李藏用伝
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新・旧の唐書には伝がない。
上元元年.河南で盤踞し不法を重ねていた宋州刺史劉展を除くため、江淮都統李峘や淮南節度使鄧景山などの文官は展が江淮都統に任命されたとして南下させた。展は不審に思いながらも栄達を喜びその兵を連れて南下したが、峘や景山はこれを攻撃し反したとした。
展は激怒して唐朝軍を破り、淮南・浙江地方を荒らし回った。
峘や景山達文官はあわてて任地を捨てて遁走した。
浙西副使であった藏用は「高禄をもらいながらろくに戦わずに逃げるとは」と敗卒を集めて守った。
二年正月.展兵に杭州で敗れたが、徐州刺史田神功が朝命を受けて南下、展を攻めたため態勢は維持した。
その後、神功が展を敗死させ、藏用も杭州を復した。
七月.臧用は試少府監から浙西節度副使になった。
十月.楚州刺史に昇進したが、崔圓など文官達が復帰し、展の乱で散逸した官物を回収するため臧用を誣告した。臧用は逃走しようとしたが殺された。
展の故将である孫待封も「展は朝命に従いだまされて反して死んだ。それを討伐した臧用も反したとして殺された。いったい何を信用したらいいのか」として死んだ。
逃亡した峘は一旦は左遷されてやがて復帰。景山は昇進した。
肅宗皇帝は優柔不断で定見がなくこのような事例が多い。
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李藏用伝
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新・旧の唐書には伝がない。
上元元年.河南で盤踞し不法を重ねていた宋州刺史劉展を除くため、江淮都統李峘や淮南節度使鄧景山などの文官は展が江淮都統に任命されたとして南下させた。展は不審に思いながらも栄達を喜びその兵を連れて南下したが、峘や景山はこれを攻撃し反したとした。
展は激怒して唐朝軍を破り、淮南・浙江地方を荒らし回った。
峘や景山達文官はあわてて任地を捨てて遁走した。
浙西副使であった藏用は「高禄をもらいながらろくに戦わずに逃げるとは」と敗卒を集めて守った。
二年正月.展兵に杭州で敗れたが、徐州刺史田神功が朝命を受けて南下、展を攻めたため態勢は維持した。
その後、神功が展を敗死させ、藏用も杭州を復した。
七月.臧用は試少府監から浙西節度副使になった。
十月.楚州刺史に昇進したが、崔圓など文官達が復帰し、展の乱で散逸した官物を回収するため臧用を誣告した。臧用は逃走しようとしたが殺された。
展の故将である孫待封も「展は朝命に従いだまされて反して死んだ。それを討伐した臧用も反したとして殺された。いったい何を信用したらいいのか」として死んだ。
逃亡した峘は一旦は左遷されてやがて復帰。景山は昇進した。
肅宗皇帝は優柔不断で定見がなくこのような事例が多い。