唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞元二十一年/永貞元年 西暦805 和暦 延暦24年 2

2020-01-21 12:27:27 | Weblog
二月辛酉,京兆尹道王實を更迭した。後任は王權。

 實は圧政をしいていたので、庶民への人気取りである、権限が大きい京兆尹を自派で固めた。

壬戌、叔文は左散騎常侍翰林待詔、伾は起居舎人翰林學士等、自派の
要職への登用を行った。
 
甲子、大赦が行われ、不要な役人・宮女の整理、減税、貢献の廃止等が
矢継ぎ早に布告された。

 有力な節度使[義武軍張茂昭・西川韋皐・淮西吳少誠等々]への加官
 も実施された。
 偏執頑迷な德宗が処罰後に長く赦さなかった陸贄、鄭餘慶、韓皋、陽
 城等も赦され召還された。

三月丙戌、浙西觀察使李錡の諸道鹽鐵転運使兼任が解かれ、宰相杜佑が
就任した。

 中央への利権の回収であり、杜佑は傀儡で実権は副使の王叔文が握っ
 た。李錡は極めて不満であったが、鎭海軍節度使に格上げされたので
 我慢していた。

癸巳,順宗の長子廣陵郡王純を皇太子とした。

 順宗の病状は悪化し、宦官や官僚は憂苦し、また王叔文一党の専権を
 嫉視した宦官幹部の俱文珍、劉光琦、薛盈珍は中堅でしかない李忠言
 を圧伏し、不満派の翰林学士鄭絪、衛次公、李程、王涯を使嗾して立
 太子させた。

 当時、宰相執誼は叔文の走狗であり、賈耽・高郢・鄭珣瑜などは無力
 であった。
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貞元二十一年/永貞元年 西暦805 和暦 延暦24年 1

2020-01-21 11:32:33 | Weblog
正月 即位後27年を迎えた64歳の德宗皇帝は重病となった。
ところが45歳の皇太子もまた重病で見舞いをすることすらで
きない状況であった。

癸已、德宗は太子の状況を悲歎しながら崩御した。

 当時の環境は
 官僚は、德宗晩年の停滞し姑息な治政に辟易し、特に皇太子周辺の若
 手官僚達は代替わ りの期待しているが、皇太子の病状には動揺して
 いた。
 河北や淄青・淮西など藩鎭は德宗の無為無策な政策に安住し特段の動
 きはなかった。
 他の方鎭は長期の在任が続き停滞していた。
 唐の財政はやや回復し再び軍事行動が可能になってきていた。

皇太子の継承に対して病状を案じた宦官等より異論があったが、遺詔を奉じた翰林學士衛次公はこれを威圧、しかし動揺が広がったので、皇太子は病状をおして九仙門に出御し、軍幹部を謁見し鎮静化させた。

丙申、皇太子は太極殿に即位[以降順宗とする]し、姿をみて群臣・兵士は安堵した。

 しかし順宗の病状は口もきけず寝たきりで、宦官李忠言と昭容牛氏が
 介助しなければ政務はとれなかった。二人と連携した翰林待詔王叔文
 王伾は、韋執誼や韓泰、柳宗元、劉禹 錫など少壮官僚とともに積極
 的な新政を進めようとしていた。

二月、淄青平盧節度使李師古や淮西節度使呉少誠は、喪に乗じて東都をうかがったが、宣武節度使韓弘は同ぜずこれを阻止した。

辛亥、韋執誼が宰相となった。
 黒幕の王叔文・王伾はその身分上[正規の官僚出身ではなく、叔文は
 囲碁等をつうじて順宗の信任を得て、相談役となっていた]、表には
 でれないので傀儡として少壮官僚の筆頭格である執誼を宰相とした。
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