八月己未,宰相袁滋を劍南東西川山南西道安撫大使とした。
自立した西川劉闢は追認を求めた。唐朝は新帝が即位したばかりでなかなか方針
が統一できず、当面宰相袁滋を派遣して様子をみることとした。
当時の宰相は賈耽は德宗以来の姑息な傍観派、杜黄裳は強硬な鎮圧派、袁滋は融
和派、韋執誼は失脚寸前で発言権のない状況であり、憲宗は即位したてで決断で
きなかったようである。
八月癸亥,尚書左丞鄭餘慶が宰相となった。
餘慶は正論を好む強硬派で討伐派が増加した。
九月己卯,王叔文派の少壮官僚韓泰、韓曄、柳宗元、劉禹錫、程异を左遷した。
德宗の緩んだ治世に耐えきれず、有能な若手官僚が叔文についていたが左遷される
ことになった。これより長く貶せられ、劉禹錫や程异のように再び起用されるもの
もいたが、詩人柳宗元のように貶地で卒することななったものもいた。
十月丁酉,宰相賈耽が卒し、姑息派はまた減少した。
十月戊戌,安撫使袁滋を劍南西川節度使とし、劉闢の継承を認めず給事中として召還した。
黄裳や餘慶など強硬派が強くなり、融和派の袁滋に解決を押しつけた。給事中は
位階は低いが要職であり、文官として本来の劉闢の立場からは栄転である。
自立した西川劉闢は追認を求めた。唐朝は新帝が即位したばかりでなかなか方針
が統一できず、当面宰相袁滋を派遣して様子をみることとした。
当時の宰相は賈耽は德宗以来の姑息な傍観派、杜黄裳は強硬な鎮圧派、袁滋は融
和派、韋執誼は失脚寸前で発言権のない状況であり、憲宗は即位したてで決断で
きなかったようである。
八月癸亥,尚書左丞鄭餘慶が宰相となった。
餘慶は正論を好む強硬派で討伐派が増加した。
九月己卯,王叔文派の少壮官僚韓泰、韓曄、柳宗元、劉禹錫、程异を左遷した。
德宗の緩んだ治世に耐えきれず、有能な若手官僚が叔文についていたが左遷される
ことになった。これより長く貶せられ、劉禹錫や程异のように再び起用されるもの
もいたが、詩人柳宗元のように貶地で卒することななったものもいた。
十月丁酉,宰相賈耽が卒し、姑息派はまた減少した。
十月戊戌,安撫使袁滋を劍南西川節度使とし、劉闢の継承を認めず給事中として召還した。
黄裳や餘慶など強硬派が強くなり、融和派の袁滋に解決を押しつけた。給事中は
位階は低いが要職であり、文官として本来の劉闢の立場からは栄転である。