正月丙寅、改元[永貞→元和]
通常即位の翌年改元する。
正月甲申,上皇[順宗]が興慶宮で崩御した。
西川劉闢は節度使を与えられたことに満足せず、東川節度を同僚の盧文若にすることを要求し拒否されると、
東川節度使李康を梓州に攻囲した。
戊子,憲宗は激怒し、強硬派宰相杜黄裳、翰林学士李吉甫の献言を入れ、長武城に屯する左神策行營節度使
高崇文を主将として神策軍を率いて劉闢を征討させた。
当時秦州劉澭や范希朝など高名な将軍は何人もいたが、黄裳は敢えて生粋の武人である崇文を推薦した。
これは朝廷政治のしがらみを考慮せず、ただ征討に専念せよというねらいであった。崇文は命を受けて即
日全軍を率いて出征した。
その頃劉闢軍は梓州を陥し、節度使李康を捕らえた。
通常即位の翌年改元する。
正月甲申,上皇[順宗]が興慶宮で崩御した。
西川劉闢は節度使を与えられたことに満足せず、東川節度を同僚の盧文若にすることを要求し拒否されると、
東川節度使李康を梓州に攻囲した。
戊子,憲宗は激怒し、強硬派宰相杜黄裳、翰林学士李吉甫の献言を入れ、長武城に屯する左神策行營節度使
高崇文を主将として神策軍を率いて劉闢を征討させた。
当時秦州劉澭や范希朝など高名な将軍は何人もいたが、黄裳は敢えて生粋の武人である崇文を推薦した。
これは朝廷政治のしがらみを考慮せず、ただ征討に専念せよというねらいであった。崇文は命を受けて即
日全軍を率いて出征した。
その頃劉闢軍は梓州を陥し、節度使李康を捕らえた。