八月庚子、皇太子[以降憲宗という]が即位し、順宗は太上皇となり、興慶宮に遷った。
改元して「永貞」となり、皇太子の母良娣王氏は太上皇后となった。
順宗は元和元年[806年]正月に崩御する。
八月癸丑,劍南西川節度使韋皋が卒し,行軍司馬劉辟が自立する。
西川は唐にとっての要地であり、安史の乱でも避難の地となり、
奉天の変でも後背となった。また唐末でも避難の地となった。
しかし永泰元年[765年]に武将崔寧が自立し、大暦十四年
[779年]に寧が帰順して一旦回復したあと、興元元年[754年]
に文官韋皐が赴任し、対吐蕃防衛で大きな功績[南詔と同盟し、
吐蕃を大破し、失地を回復し強護な防衛戦を築いた]をあげて
いった。そして引き続き吐蕃防衛の為と称して租税を上納せず、
地方官人事を専権していった。姑息な德宗皇帝はなにもできず
見守るだけであった。閉塞した朝廷とは違い、威權のある韋皐
の下、西川には多くの若手俊英官僚が集まっていった。劉闢は
その筆頭格であり、盧文若、房式、韋乾度、獨孤密、符載、
郗士美、段文昌など後日にも活躍する人材を輩出していた。
八月壬午,奉義軍安黄節度使伊慎入朝し、十二月に右僕射となる。
伊慎は対淮西[呉少誠]対策として、南部戦線の安黄二州に設
置された奉義軍節度使の武将である。安黄二州は鄂岳觀察使韓皋
が統合することになったが、安州はこの後も慎の子宥が安州留後
として継続統治、やっと五年十一月に新任觀察使郗士美が、宥母
の喪を理由に解任した。
右僕射は高官であるが宰相ではなく名誉職である。
八月辛卯,夏綏節度使韓全義入朝する。
韓全義は神策軍出身の武将で、宦官と結託し、淮西呉少誠討伐の
主帥となったが、殷水で壊滅的な敗北をして逃げ帰った。宦官達
は自分たちの責任もあったため、直接夏州に帰任させてごまかし、
無気力な德宗皇帝は実情を知らなかった。德宗以外はそれを知っ
ていたため、当然憲宗もまた知っていた。全義は懼れて入朝し、
太子少保致仕として処罰されることだけは避けて引退することに
なった。しかし甥の楊恵琳を夏州留後としており問題は続いてい
る。
改元して「永貞」となり、皇太子の母良娣王氏は太上皇后となった。
順宗は元和元年[806年]正月に崩御する。
八月癸丑,劍南西川節度使韋皋が卒し,行軍司馬劉辟が自立する。
西川は唐にとっての要地であり、安史の乱でも避難の地となり、
奉天の変でも後背となった。また唐末でも避難の地となった。
しかし永泰元年[765年]に武将崔寧が自立し、大暦十四年
[779年]に寧が帰順して一旦回復したあと、興元元年[754年]
に文官韋皐が赴任し、対吐蕃防衛で大きな功績[南詔と同盟し、
吐蕃を大破し、失地を回復し強護な防衛戦を築いた]をあげて
いった。そして引き続き吐蕃防衛の為と称して租税を上納せず、
地方官人事を専権していった。姑息な德宗皇帝はなにもできず
見守るだけであった。閉塞した朝廷とは違い、威權のある韋皐
の下、西川には多くの若手俊英官僚が集まっていった。劉闢は
その筆頭格であり、盧文若、房式、韋乾度、獨孤密、符載、
郗士美、段文昌など後日にも活躍する人材を輩出していた。
八月壬午,奉義軍安黄節度使伊慎入朝し、十二月に右僕射となる。
伊慎は対淮西[呉少誠]対策として、南部戦線の安黄二州に設
置された奉義軍節度使の武将である。安黄二州は鄂岳觀察使韓皋
が統合することになったが、安州はこの後も慎の子宥が安州留後
として継続統治、やっと五年十一月に新任觀察使郗士美が、宥母
の喪を理由に解任した。
右僕射は高官であるが宰相ではなく名誉職である。
八月辛卯,夏綏節度使韓全義入朝する。
韓全義は神策軍出身の武将で、宦官と結託し、淮西呉少誠討伐の
主帥となったが、殷水で壊滅的な敗北をして逃げ帰った。宦官達
は自分たちの責任もあったため、直接夏州に帰任させてごまかし、
無気力な德宗皇帝は実情を知らなかった。德宗以外はそれを知っ
ていたため、当然憲宗もまた知っていた。全義は懼れて入朝し、
太子少保致仕として処罰されることだけは避けて引退することに
なった。しかし甥の楊恵琳を夏州留後としており問題は続いてい
る。