正月丁卯,「建中」に改元。
即位の翌年改元するのは慣例である。
四月乙未,四鎮北庭行軍別駕劉文喜反於涇州,伏誅。
宰相楊炎は原州城を再築して吐蕃防衛に備えようとして、朔方李懷光に涇原
節度を兼任させた。いままで老齢の郭子儀の鷹揚さに諸将は甘えていたが、
懷光は軍令厳正で粛清を重ねていた。懼れた諸将は帥に柔軟な段秀實を
求めて乱した。姑息な唐朝はあわてて朱泚に交代させたが、文喜等は吐蕃
に通じて従わなかった。そのため唐朝は泚・懷光に命じて討たせた。
吐蕃は前年の敗戦と、德宗が抑留した使節を解放したことにより支援を拒
否した。支援が得られないため意気阻喪した諸将は、文喜を殺して降った。
六月甲午,崔祐甫薨。
信任が厚かった祐甫だが、多病であり、炎が専権していた。
七月丙寅,邵州賊帥王國良降。
蠻族出身の豪族國良は湖南軍將であったが、以前の貪婪な觀察使辛京杲が
その財産を奪おうとして処罰してきたことに反発して乱していた。その勢力
は強くなかなか鎮圧できなかったが、新観察使嗣曹王皋は自ら本拠地を訪れ
國良の赦免を伝えて帰服させた。國良は「惟新」と賜名され湖南將に戻った。
七月己丑,殺忠州刺史劉晏。
楊炎は、財務能力に長けた劉晏が宰相となることを懼れて讒言し殺させた。
八月甲午,振武留後張光晟殺回紇使者突董等九百餘人。
回紇は安史の乱で唐朝を援助した功績があり優遇され、その使者は横暴を極
め軍民を苦しめていた。光晟が懲罰したわけである。当然回紇は憤激し緊張
関係となった。德宗は回紇が嫌いであったので、光晟を罰せず金吾将軍に転
じさせた。
九月己卯,睦王述為奉迎皇太后使。
德宗の母沈氏は、安史の乱に行方不明となっていたが、見つかったというこ
とで迎えを出した。しかし結果的には偽物であり、沈氏は見つからなかった。
即位の翌年改元するのは慣例である。
四月乙未,四鎮北庭行軍別駕劉文喜反於涇州,伏誅。
宰相楊炎は原州城を再築して吐蕃防衛に備えようとして、朔方李懷光に涇原
節度を兼任させた。いままで老齢の郭子儀の鷹揚さに諸将は甘えていたが、
懷光は軍令厳正で粛清を重ねていた。懼れた諸将は帥に柔軟な段秀實を
求めて乱した。姑息な唐朝はあわてて朱泚に交代させたが、文喜等は吐蕃
に通じて従わなかった。そのため唐朝は泚・懷光に命じて討たせた。
吐蕃は前年の敗戦と、德宗が抑留した使節を解放したことにより支援を拒
否した。支援が得られないため意気阻喪した諸将は、文喜を殺して降った。
六月甲午,崔祐甫薨。
信任が厚かった祐甫だが、多病であり、炎が専権していた。
七月丙寅,邵州賊帥王國良降。
蠻族出身の豪族國良は湖南軍將であったが、以前の貪婪な觀察使辛京杲が
その財産を奪おうとして処罰してきたことに反発して乱していた。その勢力
は強くなかなか鎮圧できなかったが、新観察使嗣曹王皋は自ら本拠地を訪れ
國良の赦免を伝えて帰服させた。國良は「惟新」と賜名され湖南將に戻った。
七月己丑,殺忠州刺史劉晏。
楊炎は、財務能力に長けた劉晏が宰相となることを懼れて讒言し殺させた。
八月甲午,振武留後張光晟殺回紇使者突董等九百餘人。
回紇は安史の乱で唐朝を援助した功績があり優遇され、その使者は横暴を極
め軍民を苦しめていた。光晟が懲罰したわけである。当然回紇は憤激し緊張
関係となった。德宗は回紇が嫌いであったので、光晟を罰せず金吾将軍に転
じさせた。
九月己卯,睦王述為奉迎皇太后使。
德宗の母沈氏は、安史の乱に行方不明となっていたが、見つかったというこ
とで迎えを出した。しかし結果的には偽物であり、沈氏は見つからなかった。