唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

貞元十一~十二年 西暦795~6年

2020-03-26 10:03:22 | Weblog
四月壬戌,陸贄の与党を左遷した。
德宗は猜疑心強く、また執念深いので貶した臣下を赦すと言うことはなかった。また寵愛した臣下は、他から批判されてもあくまで贔屓にするという悪癖もあり、どちらかというと暗君である。ただ文化的教養は高かった。この場合の愛臣は裴延齢である。

四月丙寅,奚寇平州,幽州節度劉濟敗之於青都山。
東北面の防衛は完全に幽州節度任せである。

五月甲申,河東節度使李自良薨。行軍司馬李說為留後。
唐朝管轄下でも有力な節度使が死ぬと、軍乱を懼れて、中央から任命するのではなく、牙軍の状況を配慮して、通常事前に送り込まれたナンバー2の行軍司馬が昇格するという姑息策が通例になっていた。

七月、河東監軍王定遠乱死。
河東軍政は実質宦官の定遠が握っていた。ところが定遠が私怒によって大將を殺したことを咎めた節度使說を追い出そうとして、將士に支持されず失敗したものである。

八月辛亥,侍中馬燧薨。

九月,橫海軍兵馬使程懷信逐節度使懷直,自稱留後。
懷直は唐朝にすり寄っていたが、士卒には厳しかったので、従父兄懷信に追われて京師に奔った。

貞元十二年 西暦796年
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正月、成德王武俊、河中渾瑊をはじめとして、全土の節度使達の検校官を昇進させる。
単なる姑息なご機嫌とりである。使相も乱発した。

四月庚午,魏博節度使田緒卒,子季安自稱留後。
緒が若くして卒したが、妻は嘉誠公主であり、季安はその養子であるので継承は自動的である。

六月乙丑,竇文場、霍仙鳴が左右神策護軍中尉に。
宦官による神策軍の掌握である。この德宗の大失策によりやがて兵権は皇帝から宦官に移行し唐朝の弱体化が始まる。猜疑心の強い德宗が自分に近い宦官に頼ったためである。德宗はやはり愚帝である。

六月己丑,宣武軍節度使李萬榮卒,子乃自稱兵馬使,伏誅。
宣武軍における萬榮の基盤は弱く、子の乃もまた人望がなかった。そのため諸将は動揺し、いち早く東都留守董晉が乗り込んできたため乃の自立は失敗した。老獪な晉は硬軟使い分けて慰撫したので、その死までは一応抑えることができた。

八月丙戌,趙憬薨。賈耽も引き籠もる。
十月甲戌,崔損、趙宗儒が宰相になる。
単なる宰相の補充である、裴延齢の推薦による。

九月甲午,以李景略為豐州都防御使。
河東行軍司馬の景略は人望があり、回鶻の使臣に対しても抑えが効いたため、河東李說が地位を追われることを懼れて分立させた。